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日比嘉高研究室

近況、研究の紹介、考えたこと

「大学は役に立つのか」にマジレスしてみます 総論編

大学はいま

昔から問われつづけた問いであるような気もしますが、最近とくに目にすることが多くなった問いに、「大学に通って何の意味があるの」「大学は役に立っているの」というものがあります。これは色々な角度から答えられますし、その答えは誰に対して答えるのか――保護者なのか、一般社会なのか、同僚なのか、文部科学省なのか、企業経営者なのか、などなど――によっても力点が変わる気もしますが、ここでは学生向け、一般社会向けに、私なりにこの問いへマジレスしてみようと思います。

なお、いわずもがなですが「マジレス」とは、「ネタ発言に対してネタで返す事が出来ず大真面目に返してしま」(ニコニコ大百科より)うというニュアンスの言葉です。こんなこと説明必要かなぁ、という困惑と躊躇がこのタイトルになりました。。。

この記事の内容

だいたい次のような項目になりました。

I 大学で得られること・わかること 総論編

  1. 世の中の考え方には「基礎」があり、「応用・発展」があり、「変遷」がある
  2. 判断を下すためのポイントは複数あるのが普通である
  3. まともな成果を出すには手間暇がかかる
  4. 芽が出るのか出ないのかわからない種々の種
  5. 何かをしなければならないという強い責務がない状態


II 大学で得られること・わかること 個別分野編(日本文学研究)

  1. 日本には膨大かつ高質な文学作品の文化遺産・資産があることを思い知る
  2. それを強制的に/自主的に読むための時間と技術と嗜好
  3. 文章を「何が書いてあるか」ではなく「どう書いてあるか」の視点で見られる
  4. 文学作品をより深く面白く読み・語るための知識と理論
  5. 日本文学は、日本人による日本人のための文学では(昔も今も)ないと知る

さっそく順番に行きましょう。

I 大学で得られること・わかること 総論編

大学の教員は全員、個別分野の研究をしていて、「総論」担当の人はいません。が、すべての分野に該当するのではないかという「総論」的なことを今回あえて考えてみました。

1. 世の中の考え方には「基礎」があり、「応用・発展」があり、「変遷」がある

大学で学ぶ、ということに対し、自分でネットなどで調べるという状態を対比すると、ここで説明しようとしていることがわかりやすいでしょう。

大学では学問を学びます。学問は体系になっています。体系というのは「基礎」があって「応用・発展」があって、「変遷」があります。大学で学ぶことができるのは、世の中のたいていの考え方には「基礎」「応用・発展」「変遷」があるということです。

ここでいう「基礎」と「応用・発展」は、〈簡単−難しい〉、という順序を示していません。その分野の枠組みを作っている基本的・根本的な考え方が「基礎」で、それを使って個別の事例・事案に適応したのが「応用・発展」です。「変遷」というのは、そうした「基礎」「応用・発展」の体系そのものが移り変わってきたという事態を指します。

なぜ、体系――「基礎」「応用・発展」「変遷」――を学ぶことが大事なのでしょうか。なにより「基礎」を学んで会得した時の見通しのきき方や応用力が、とにかくすごいということがあります。人文社会科学系を例に取りますが、たとえば思想家のミシェル・フーコーの議論を理解していると、現代の私たちが生きている社会の統治の問題や、権力の問題、性の問題、生命倫理の問題などなど、さまざまな領域を語るための言葉が一気に手に入ります。

逆に、体系を知らない場合の知識のかたちは、大切なものも、些末な事実も、基本的な事項も、応用的な変化球も、一緒くたのごた混ぜになります。私たちの社会にはいま膨大な情報があります。書籍としての蓄積に加え、日々追加されるネット上の情報も到底一人で追いきれるものではありません。

大切なのは、なにが「基礎」なのかを知り、それを身につけることです。「応用・発展」は「基礎」を知っていれば、自然についてくるし、フォローするのも難しくはない。逆に「基礎」を知らないと目先の情報や変化に惑わされて、右往左往することになる。

もう一つ、〈体系は「変遷」する〉ということを知っていることも重要です。いかに優れた体系でも、いつか次の代替的な体系によって打ち倒され、変遷していきます。私たちがいま生きているさまざまな知の体系も、必ず今後そうなるでしょう。自分自身の現在の立ち位置を相対化できるという柔軟性も、大学で身につけられる重要な素養です。

では、大学のカリキュラムが体系的になっているかどうかといえば、当事者として反省せねばならないことが多いです。ただ、教員たちはそれぞれの専門の「基礎」が何なのかを知っており、講義やゼミの中でそれを読んだり学んだりすることを指示しているはずです。

知の体系が「基礎」をもとに構造化されていることを知り、「基礎」を押さえて思考する術を身につければ、ものごとの見通しがぐっとクリアになります。

2.判断を下すためのポイントは複数あるのが普通である

なにごとかを学術的に思考するということは、さまざまな説やデータを引っぱり出してきたり集めたり案出したりして、ああでもないこうでもないと検討するということです。およそあらゆる「問題」に対し、一つの考え方や方法からしか答えが導けないということはありません。

先日、火山の噴火があった時、ある専門研究者の方がテレビ局のスタジオに呼ばれて、噴火の仕組みや今後の見通しについて解説を求められていました。たいへんに、歯切れの悪い、はっきりと物を言わない話し方をしました。一方、その横に座っていた火山・自身に詳しいというジャーナリストはとても明晰で、いま求められているべき情報・回答がはっきりわかっている答え方をしていました。

私は一視聴者として、そのジャーナリストの回答に安心感を得ましたし、いま知りたいことを教えてもらったと感じました。その一方で、その専門研究者の方がそのようにしか答えられなかったということも、よくわかりました。なぜある火山がいまこのタイミングで噴火したのか、そしてこのあとどうなるか、それを説明するには調査と考察が必要です。調査をし、考察し、説明するというのは、膨大なデータを集め、検証し、仮説を提示し、その限界を知り、その上で他者に説く、ということです。

考え方は複数ある、データは多義的である、したがって判断は複雑な要素の勘考を経るしかなく、判断の「正しさ」には限界がある――ということを知っているということがとても大切です。大学で学問研究に触れると、身をもってそれを経験します。図書館で先行する文献を読みあさったり、実験室でああでもないこうでもないと工夫したり、インタビューをして回ったりすると、問題は簡単ではない、それを考えるための観点も資料も多種多様だ、ということを思い知ります。

複雑でありすぎる要素を整理し、簡単ではない問題を自分なりの観点からまとめ、他者に話す。そして質問に答えたり、反論されたり、褒められたり、スルーされたりする。その経験が大切です。

少子化問題でも、米軍基地問題でも、領土問題でも、「従軍慰安婦」問題でも、表現の自由の問題でも、これだという正解は簡単には導けません。複雑な経緯と、多すぎる要因が相互に絡み合っているからです。

いま、私たちの社会には「わかりやすい言葉」「単純な言葉」「直感的にわかる言葉」「感情にのみ訴える言葉」が溢れています。情報量が増える一方、個別のメディアへの接触時間が細切れ化している状況では、必然的な傾向とも言えます。しかし、単純な言葉は、本来複雑な事象を単純化し平板化した言葉であるということを、知らねばなりません。

世の中の複雑さに対して謙虚であること、複雑さを縮減せずに判断しようと試みること、そして自身の知の限界を知ること――これらは理性的な社会人として振る舞うための重要な素養です。


3.まともな成果を出すには手間暇がかかる

最近、図書館に行くのがおっくうになりました。私の職場の場合、研究室のある文学部の玄関を出て、目の前が中央図書館です。道を隔てた向こう側、目と鼻の先です。至近です。にもかかかわらず、図書館に行くのに気合いがいる。怠けるのもいい加減にせよオレと反省しますが、どうも私個人の性向の問題だけではない(それも大きいとは思いますが)。

いま、私たちの社会では、データや資料のデジタル化が急速に進んでいます。私自身のこれまでの勉強や研究方法の変遷を考えてみても、この点ははっきりしています。私が学部生や大学院生だった1990年代には、パソコンは主に文字入力機器であり、OPACの検索端末でしかありませんでした(文系研究者の場合)。検索結果を手に、図書館へ足を運ぶしかなかった時代です。

ところがいま、私は研究室にいながらにして、論文を集めて読んだり、図書館の資料を見たり、過去の新聞記事を読んだりできます。たいへんに、ありがたいことです。

その一方で、危惧も感じます。欲しい資料がその場で手に入る、というのはたしかに素晴らしい進歩ですが、「考えたいので欲しい資料を探す」が「手に入る資料の範囲で考える」に、ともすれば反転しそうになるのです。

学生たちのレポートを見るとこの傾向ははっきりしてます。ある年、期末レポートで出した課題で、多くの学生が同一の研究論文をこぞって引用してきました。引用されている論文は、とくに有名な研究者によるものでもなく、有名な論文だというわけでもありませんでした。もしや、と思ってググってみると、案の定その論文は検索結果の上位に出て来、かつその場で本文をダウンロードできるものでした。

これは卑近な例ですし、デジタル化の状況次第で変わる例でもありますが、ここで述べたいことの肝は、「研究はめんどくさいものだ」ということです。もう少し言い直せば、まともに自分の足で調べ、自分の頭で考えようとすると、時間もかかるし手間もかかる(そして多少のお金もかかる)ということです。

そして、まっとうにものごとをやろうとすると手間暇がかかる、というのは研究の世界だけのことではありません。どの分野でも、そうでしょう。丁寧で、尊敬され、尊重される仕事は、手間暇がかかっており、だからこそオリジナルである仕事です。近道を通って、ささっと仕上げた仕事には、所詮それだけの価値しかない。

私は、受験勉強の価値をある意味で認めています。受験勉強は時間がかかり、めんどくさい。しかし、そのめんどくささに堪え、机に座り続ける。この能力は、大切です。大学の学問世界で受験勉強がそのまま役に立つ場面は少ないですが、しかし粘り強く机に向かう能力を身につけた学生は、学術の世界でも一定の成果を出せます。

おそらく大学卒業後においても同様の構図は該当するでしょう。大学の学問がそのまま仕事で役に立つという場面は少ない。しかし大学の学問研究で身につけた姿勢が、仕事に向き合う時に役に立つということは、一定程度あるのです。

大学で学ぶことが役に立たないと主張する人は、学ぶことの「内容」のみを言っていることがほとんどです。「内容」が役に立たない場面は当然あるでしょう。しかし、大学で学ぶのは「内容」だけではありません。知的な作業に従事する「姿勢」を身につけます。その「姿勢」は社会に出てからのさまざまな場面で、その人自身と周囲の人を必ず助けます。

4.芽が出るのか出ないのかわからない種々の種

「大学で学んだことが役に立つ/立たない」ということの判定は、いったいいつの時点で、そしてどの場面で下すべきなのでしょうか。この問いを耳にする時、私はいつも考え込みます。新入社員の時でしょうか、中堅社員になってからでしょうか、リタイアしてからでしょうか。職場においてでしょうか、家庭においてでしょうか、趣味の領域においてでしょうか。

「役に立たない」と述べる人は、大学に通うことにお金と時間を費やす価値はあるのか、と問うているのでしょうから、多くの場合は対価・見返りを求めているのでしょう。とするとたいていは仕事の面で、社会人である期間に、役に立つことを求めているのでしょう。

この対価・見返りはあるのかという問いかけに対して、私は二つの方向から答えられると考えています。

まずは「役に立つ/立たない」を全人的な基準で考えるべきだということです。ここでいう全人的ということの意味は、その人の人生のあらゆる場面、あらゆる期間において、考えてみようということです。いま役に立たないと思ったことでも、あとから役に立つということはある。しばらく忘れていたけれども、思い出して活用し出すものがある。学んですぐに使えなくても、あとから芽を出すものもある。ここでは使えなかったけれど、場面が変わったら使えるようになることがある。なにがいつどこで役に立つかわからない、しかし身につけていれば、どこかでそれが発現する。その未来の発現に希望を托しながら、自分自身の今を鍛えていく。学ぶとは、そういうことではないでしょうか。

もう一つは、大学の多様性を活用して欲しい、ということです。大学には多様な学域の専門家が集まっています。図書館もネット環境も整っています。貪欲に、それらに接触しましょう。週に一回、たった半年だけ聴いた講義でも、妙に印象に残っている授業というのは誰しもあるものです。それが、いつか何かにつながるかもしれない。必要な本を探しに行った図書館で、たまたま見かけた本が、思いも寄らない物の見方を教えてくれることもあります。

大事なのは「実」ではなく、「種」です。学生にとって大学は「実」を結ばせる場ではなく、「種」を獲得する場です。

また、大学は学問をするだけの空間ではありません。部活やサークルがあり、友人や先輩後輩のネットワークがあり、地元の文化との地縁の宝庫であり、留学、旅行、インターン、アルバイトなどさまざまな社会経験の場です。先に私は「役に立つ/立たない」を全人的な基準で考えて欲しいと述べました。大学が小学校・中学校・高校と異なるのは、大学が学生の全人的な経験に関わりうる、多様な側面を持った、懐の深い空間だという点にあります。

大学に対価を求める考えの方は、大学で教えられていることの内容を金銭に置き換えようとして、「高い!」「割に合わない!」と言っているのでしょう。もちろん、授業の内容は高質であるに越したことはありません。しかし、大学在学中に支払う金銭に対応するものは、はたして授業の内容だけなのでしょうか。大学に在学することでえられるものは、それほど簡単に計れるのでしょうか。

「役に立つ/立たない」ということを近視眼的に捉えてはいけません。

5.何かをしなければならないという強い責務がない状態

働き始めてわかったこと――大人は忙しいということです。職を持っている人だけを言っているのではありません。家庭で働いている主婦・主夫も、子育てしているお母さんお父さんも忙しい。

忙しいと、ものごとに優先順位ができます。優先順位の高い順から、一週間7日間、一日24時間を配分していく。大事な仕事、締め切りのある仕事から、こなしていく。自分自身のこと、成果・効果がすぐに出なくてもいいことは後回しになっていく。

そういう状態になっているあなたに、私は聞いてみたいのです。学生に時間が余っていることは、いけないことでしょうか。自由な時間があることは、何事にもかえがたい、素晴らしいことではないでしょうか。

大学にいま襲いかかっているのは、効率化の波、成果主義(大学評価)の波です。それは学生にも波及します。語学教育、実習、講習会、インターンシップ、留学、就職活動、講演会、etc.etc... 大学側は、自分たちが仕事をしていると主張するため、就職率や資格試験の合格率や語学試験の結果などを上げるために、隙あらばイベントや講座、機会を案出します。それらは学生からの需要も高いし、大学と連携する企業や諸機関からの要請も高い。

そして学生たちの大学生活はどんどんと多忙になっていきます。

もったいない、と日々仕事に追われる私は思います。自由な時間はお金を出してでも欲しい、多くの人はそう思うのではないでしょうか。それは怠けたい、休みたい、という気持ちの表出ではないと私は思います。人々は自由な時間があれば、何か自分自身や他者のためになることをしたいと思っているはずです。自分自身の力を向上させたり、人とのつながりを深めたり、なにかを創ってみたりしたい。そう思ってはいないでしょうか。

ただし時間だけがあっても、考える材料や使う材料がなければなにもできない。人のネットワークがなければ発想も広がらない。

大学には、それらが豊富に備わっています。大学にそれがなくても、大学にいる期間・身分を生かして、大学の外へ行く事もできる。そうした自由な時間、自由な振る舞いが、なにかを創り出すことにつながるのだと私は信じています。

かつて大学は「モラトリアム(猶予期間)」の名の下に批判されました。私はいまや、「猶予期間」の大事さを思います。それは積極的な意味での「あそび」の時間です。私は、私たちの社会が、大学における「自由」の時間に、もっと価値を見いだすべきだと思います。それは大学生のためでも、大学の職員、教員のためでもありません。私たちの社会が「自由」というものにもっともっと積極的な価値を認めるためです。

教育機関であり、研究機関である大学に自由が保証されることは、大学以外の世界に必ず波及します。大学で自由を享受し自由に触れた学生は、自由の意味と価値を知った社会人になっていきます。

自由の場としての大学の存在価値を、そして大学生活とはその自由を享受できる他に代えがたい期間なのだということを、あらためて考えてみて欲しいと思います。


  *
以上、大学で得られるものは何かということを、大学の教員という立場から総論的に(=さまざまな分野に該当するんじゃないか、という方向で)考えてみました。

次は、私の専門である日本文学研究の場合において、「役に立つの?」にマジレスする試みをしてみます。