日比嘉高研究室

近況、研究の紹介、考えたこと

温又柔さん講演会@名古屋大学

本日、作家の温又柔さんをお招きして講演=特別講義をしてもらいました。タイトルは「境界線上の子どもが小説を書くまで――「おんゆうじゅう」として育った私の場合」。

一時間半という短い時間でしたが、ご自身の生い立ちから、多言語の葛藤の中でどのようにして言葉と向き合うか、それを小説化していくときの気構えなど、熱く語って下さいました。学生たちとの質問にも丁寧に答えて下さって、充実した会になったと自賛しております。

個人的には、(1)多言語をテキストの中に織り込んだ作品は、文字レベルだけで考えるのか、音も含めて考えるのか、でぜんぜん違う (2)言葉の開放性・多重性を議論したり重視したりする場・人は、言葉をめぐる閉鎖性・純粋性を指向する圧力と隣り合わせである というようなことが心に残りました。

(1)についていうと、温さんは今回、「好来好去歌」の音読をして下さったのですが、それは文字で読むだけだった経験とはまったく異なりました。その箇所には台湾語と中国語が部分的に含まれていましたが、その異言語感(日本語から見て、の意)たるや、黙読では絶対に立ち上がってこない耳触り、手触りでした。多言語テクストは、可能であれば音読されるべし、というのが今日の教訓です。いかにそのテクストが「違うもの」を編み合わせているのか、ライブ空間に立ち上がります。ぜひおすすめ。

 言葉と身体感覚の共鳴についても少し話題になりました。言葉は身体感覚を引き起こし得ますが(おいしそうって唾が出るとか、痛そうって縮み上がるとか)、多言語テクストは、身体反応が言語ごとにスイッチされて差異化されるために、むしろ身体反応のあるなし・強弱に意識的なるかもしれません。

(2)温さんの講演の中で、言葉をめぐる「壁」とか「囲い」とか「排除」という表現が何度か出て来ました。温さんは、日本育ちの台湾人で、日本語のネイティブ話者であるわけですが、日本人のある種の人たちに、「母語」「母国語」というものについての考えをしばしば聞かれたりするのだそうです。それはリービ英雄さんの言葉を借りると「日本語の所有権」をめぐる問いかけですね。「お前の話すその言葉は、誰の言葉なのか?」という。
温さんの語りは穏やかで開放的でしたが、そういう「尖ったシーン」に何度も立ち会ってきた人なんだなぁと、横でお話を聞いていて感じ入った次第でした。

とにかく、わざわざ悪天候の中、名古屋まで足を運んで下さった温さんに感謝!!