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日比嘉高研究室

近況、研究の紹介、考えたこと

東・西洋日本語文学研究国際学術SYMPOSIUM「世界 日本語文学研究の現状と展望」

高麗大学でのシンポジウムを終えて、日本への帰路、これを書いています。

今回のシンポジウムは「東・西洋日本語文学研究国際学術SYMPOSIUM「世界 日本語文学研究の現状と展望」」と題したもので、メンバーは雑誌『跨境 日本語文学研究』の編集委員、査読委員の一部によって構成されました。

詳しいラインナップは写真をご覧いただくとしまして、簡単に記録しておきます。


基本的に報告は、それぞれの国や地域における、近代を中心にした日本(語)文学の研究、教育、翻訳の現状を報告し合うもので、韓国、中国、台湾、米国、ドイツ、フランス、オーストラリア、日本の現状が二日間で並んださまは、それ自体とてもとても面白かったです。報告の内容と、三日間の昼夜の意見交換から私が得た知見を短く書きます(文責、日比です)

  • 韓国では研究拠点の「選択と集中」が激しく進行しているが、一方で人文系学者たちの連帯的アピール活動が功を奏した例もあり、人文学研究についての政府助成がある程度なされるようにもなっている(ただしこれはその人の置かれた立場によって評価が違いそうだ)こと。
  • 中国でも新自由主義的な研究教育の点数化や、カリキュラム改革の弊害が大きいこと。翻訳研究に注目が集まっていること。
  • 台湾では日本をめぐる入り組んだ対立や愛憎に、現在の日本国内の文化政治の状況がダイレクトに結びついていること(小林よしのり台湾論』の翻訳の例など)。
  • 米国については、先日の「日本の歴史家を支持する声明」のことや、日本の政府・企業よるさまざまな研究助成のこと、市場主義の進行はもう抵抗する気も失せるほどだということ(学科ごとの新卒採用者の平均初任給額が出されたりしているらしい…)。
  • ドイツでも日本の人文学研究についてのポストは減っていること、日本文学の翻訳を担う主体が研究者から市場へと移行していること。
  • フランスでは日本語からの翻訳は、英語に次ぐ第二位の位置にあるがそれは主にマンガのシェアが大きいこと。
  • オーストラリアでは日本語は学ぶ外国語として現在第一位だが中国語との差は縮まっていること、そしてオーストラリアとニュージーランドの日本研究のポータルサイトJANZの紹介などもあった。
  • 日本についての報告者は、坪井秀人さんと河野至恩さん、そして私。坪井さんは小林秀雄の「無情といふ事」の想起論から語り起こし、新自由主義の吹き荒れる中で学問批判がいかに可能かを問いました。河野さんはご自身の近著の中でも論じられた地域研究/世界文学という二つの読みのモードに言及しつつ、翻訳という行為が存(ながら)える作品の「死後の生」(ベンヤミン)を論じました。私は、最近の大学改革や、学会、院生の傾向、科研費の傾向などを紹介分析しました。

ほかいろいろありましたが、詳細は後に出る報告論集をお楽しみに。

共通した点としては、新自由主義的な価値観があらゆる地域で猛威を振るっていることが、繰り返し溜め息とともに確認されました。それは教員個人には個人評価(査定)として、大学へはランキング競争や統廃合や「選択と集中」として、そして国際レベルではアメリカの有力大学への資金と人材の集中として現れています。

もう一つは、マンガ、アニメ、ゲームなどのポップカルチャーの影響力。ほぼすべての海外の大学で、学生たちの日本への関心の入口がポップカルチャーとなっているようです。日本研究の直面している課題はポップカルチャー研究の推進それ自体にもありますが、既存の研究教育領域とポップカルチャーに関心をもつ層との橋渡しの工夫にあることが確認されました。

最後の総合討論では、「日本語文学」という概念それ自体について突っ込んだやりとりが交わされました。高麗大学の意図は、この言葉によってこれまでの日本文学の範囲と植民地や移民地などにおける日本語創作活動を包括するというものでしたが、「○○語文学という」言い方が含むニュアンスは各地域によって異なるし、何を意図して用いるかによっても異なります。その詳細が議論されたわけですが、これについても後日の報告論集にて、おそらく何らかのレポートがでるはず。

そのほか、翻訳の問題が議論され、そして最後にシンポジウムのまとめが文章の形で相互に確認されました。このまとめは、「声明」の形で出そうという提案もあったのですが、今回は参加者による確認という形で落ち着きました。この「まとめ」についても、後日報告がなされるでしょうし、タイミングをみて私もあらためて紹介します。