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日比嘉高研究室

近況、研究の紹介、考えたこと

大学のグローバル化で何が論じられているか、何を論じるべきか

大学はいま

グローバル化の論点

 大学にグローバル化の大波が押し寄せている。「スーパーグローバル大学」だとか、ランキング競争、英語専門コース、留学生受け入れ三〇万人計画などといった、さまざまなトピックについて聞いたことがある人も多いだろう。この章では、いま大学のグローバル化について、どのようなことが論じられているのかを確認し、その上でどのようなことを論じるべきなのかを書いてみたい。

 大学のグローバル化というと、現政権や文部科学省が主導する施策に目が行きがちだが、私たちのところへ届いているのは、実は政治的な圧力という波だけではない。私たちの身近な社会で進行しているグローバル化の問題もあわせて考えなければならない。ここでは、前者のグローバル化を〈上からのグローバル化〉、後者のグローバル化を〈足もとのグローバル化〉と便宜的に分けておくことにしよう。

 大学のグローバル化に関わる最近の論点の大枠を決めているのは、首相官邸に設置された教育再生実行会議による「これからの大学教育等の在り方について(第三次提言)」(二〇一三年五月二八日)、そしてこれを踏まえた「教育振興基本計画」(第二次、二〇一三年六月一四日閣議決定)、「国立大学改革プラン」(文部科学省、二〇一三年一一月)、「日本再興戦略 改訂2014-未来への挑戦-」(二〇一四年六月二四日閣議決定)などである。この内容は重なるところが多いが、全体の最大公約数的な論点を俯瞰するためには、前記の教育再生実行会議「これからの大学教育等の在り方について(第三次提言)」と、文部科学省中央教育審議会「大学のグローバル化に関するワーキング・グループ」が会議資料として配付した「大学のグローバル化に関するワーキング・グループ審議に際しての論点(例)」を参考にするのが良いと思われる。

 課題だとされているのは、

(1)大学の国際展開
(2)教育環境の国際化

 に大別できる。(1)大学の国際展開としては、たとえば次のような課題が指摘されている。ジョイント・ディグリー(複数大学による共同の単位付与)など海外の大学との教育連携。海外の大学の教育ユニットを丸ごと誘致する案も出ている。日本の大学の海外キャンパスや海外拠点の設置。国際的に通用する大学入学資格(国際バカロレア資格など)による教育の質保証と学生の流動化。大学の国際的な情報発信の必要性、などである。

 (2)教育環境の国際化としては、外国人教員の増加、留学生の増加が求められている。これはいわゆる大学ランキングの上昇策と連動していて、文部科学省は熱心である。英語による授業数の増加や英語による授業だけで学位を出すことのできるコースの設置。日本人学生の留学支援。また、事務局の国際化や、外国人教員の生活環境の整備・支援も課題として上げられている。

東京大学教養学部英語コース(PEAK)でも学生集めは難しい


 どのような感想を持たれるだろうか。私自身は、大学のグローバル化に必ずしも反対ではない。上記の〈上からのグローバル化〉の求めているものについても、進めればいいと思うものが少なくない。

 知的な環境は、その構成員が多様であった方がより創造的になると私は考えている。外国人教員も双方向の留学生も、その意味でもっともっと増えた方がいいと思うし、増やすのであればそのサポート策を練るのは当然だ。海外の大学との連携も、どんどん勧めれば良い。選択肢は多ければ多い程いい。

 ただし、話はそれほど簡単ではない。仮に、英語で教える教員を配置し、世界から学生を集めるコースを作り、大学のランキングも上位にあるとしよう。どうなるだろうか。

 先日、東京大学教養学部英語コース(PEAK)の2014年度合格者の7割近くが東大を蹴って外国の大学に流れた、というニュースが話題になった東京大学の大学ランキングは、タイムズ・ハイヤー・エデュケーションの 2014―5年において二三位。これを十位以内にしたら、辞退者は減るだろうか。多少減るだろう。ではスーパーグローバルの指定を受けた他の大学はどうするのか。二三位でこの状況であるわけだが。

 日本の大学と英語圏の大学では、そもそも学生の大学卒業後の就職先が相当違う。学生が大学を選ぶ際に、その先の人生のコースを考えるのは当然である。英語圏のトップ・ランクの大学の二番煎じをすれば、学生も二番手三番手の学生しか集まらない。当たり前すぎる結論だが、英語で教えること自体をアピールしても何の魅力にもならない。学べることの中身の問題ということになる。

 〈上からのグローバル化〉に関して言えば、気になる点が、二つある。国が英語を重視しすぎていることが一つ。〈足もとのグローバル化〉がほとんど視野に入っていないことが、もう一つである。

英語指向と〈足もとのグローバル化

 英語指向が強すぎるということと、〈足下のグローバル化〉を視野に入れていないということとは、実は同じ事態を指しているとも言える。要するに、私たちの身近なところで進行しているグローバル化の問題に、うまく対応できていないということである。

 私たちの身の回りの外国人は、何人が多いだろうか。彼らは何語を話しているだろうか。彼らのことを私たちはどれだけ知っているだろうか。日本と人的な交流がさかんな国々はどこだろうか。今も今後もアジア諸国がその筆頭にくるのは当然ではないだろうか。

 いま大学がその運営の際に用意している言語的なチャンネルは、ほぼ日本語と英語だけである。たとえば私の所属大学の部局では、私費外国人研究生の応募希望者に向けて二種類の募集要項を用意している。日本語版と英語版である。標準的と言えるだろう。だが実際には、希望者の多くは中国人である。たとえば中国語版を用意するということが、〈足もとのグローバル化〉に対応するということである。もちろん、中国語版で提出されれば、受入側の教職員が難しいという現状がある。だが、徐々に対応していけるような努力を、大学はするべきではないだろうか。

 大学の機能は、先端的な研究成果を上げることや、優秀な学生を送り出すことだけではない。世の中のさまざまな課題を解決するためのアイデアを産み出し、多様な問題に立ち向かえる人材を育てることも重要だ。日本は、今後いっそう多様な文化的背景の人々が生きる社会になっていくだろう。日本の大学が「英語」の方をしか向いていないことは、大きな損失であるし、対応しなければならない課題への対応力を育てないということにもなろう。

 「英語だけ」ではなく「バイリンガルマルチリンガル」を目指すことが重要だ。組み合わせは、日―英でも、日―ポルトガルでも、日―韓―中でも、なんでもよい。重要なのは多軸化だ。これについては別の記事「語学教育と覇権主義」で「複言語主義」という考え方を紹介しているので、そちらも参照して欲しい。「バイリンガルマルチリンガル」であることは簡単ではないが、組織にとっても教職員にとっても学生にとっても必要かつ魅力的だ。

 これも身近な勤務校の例だが、「アジアの中の日本文化」という名称の英語で教
育するコースが最近できた。私も多少関わっているが、このコース担当の先生た
ちと話していて教えられたのは、英語と同時に日本語も学んでいくことの重要さ
である。

 つまり英語で単位が取得できてそれだけで卒業できる、ということは、果たして
留学生にとって本当に魅力的なのだろうか、ということである。英語で単位を取
得できるにしても、日本にいて日本語を学べるということが留学生たちにとって、
もう一つの大きな魅力になるのは当然ではないか。一つの言語をその土地に身を
置いて習得できる、ということはたいへんに得がたいチャンスなのだ。このコー
スは「アジアの中の日本文化」を学ぶコースだという特長があるのは考慮しなけ
ればならないにしても、英語コースに所属する学生たちが、在学中に日本語を身
につけることは、プラスになりこそすれ、マイナスになる事はない。それはどん
な分野においても、等しく言えることのはずだ。

 また長期的な今後の鍵の一つは、日本国内の在日外国人の子女が日本の大学に入学し卒業し就職するという道筋を太くすることにあるだろう。政府の主導する留学生誘致策には、企業に対して優秀な留学生を積極的に雇用するようにという提言が含まれている(前掲「これからの大学教育等の在り方について(第三次提言)」)。「優秀な」とわざわざ付けるところが官僚らしいと私は思うが、方向性としては当然だろう。

 このことがどういう結果になるか、容易に予想できる。三〇万人の留学生のうちの何%かが定住する可能性があるということである。そしてもちろん、在留外国人は留学生以外にも数多く、彼らには子女がいる。現在の日本の教育制度は、外国人の子弟教育にまったく十分な手を打てていない。これはとても残念なことだし、将来の大きな不安材料でもある。外国人たちの子女が高等教育を受けやすくすること、それがこの国の安定と活性化につながると私は考えている。さらにいえば、大学はそれをサポートするために、多文化共生に関わる思考、政策、制度、価値観、資料などを研究し、教育し、提言する拠点とならなければならない。

日本人としてのアイデンティティを高めるのがグローバル化ですか

 以上で私の言いたいことは尽きているのだが、一つだけ最後に書き加えておきたい。現政権の特徴である自国愛的な傾向が、大学のグローバル化の文脈においても陰を投げかけてきているということである。

④日本人としてのアイデンティティを高め、日本文化を世界に発信する。
○ 日本人としてのアイデンティティを高め、日本文化を世界に発信するという意識をもってグローバル化に対応するため、初等中等教育及び高等教育を通じて、国語教育や我が国の伝統・文化についての理解を深める取組を充実する。国は、海外の大学に戦略的に働きかけるなどして、海外における日本語学習や日本文化理解の積極的な促進を図る。また、日本文化について指導・紹介できる人材の育成や指導プログラムの開発等の取組を推進する。(前掲「これからの大学教育等の在り方について(第三次提言)」)


 これとしっかりと歩調を合わせた文部科学大臣の談話もある。「平成26年(2014年)10月12日付 インターナショナル・ニューヨークタイムズ紙の記事について」という会見で、大臣は次のように述べている。

日本の学生は海外で日本のことを語れないとの経験者の声が沢山出ていますが、真のグローバル人材として活躍するためには、日本人としてのアイデンティティである日本の伝統、文化、歴史を学ばなければ、世界の中で議論もできませんし、日本人としてのアイデンディディも確立できません。

http://www.mext.go.jp/b_menu/daijin/detail/1353247.htm


 これは、同記事が「日本はナショナリズムとコスモポリタニズムを同時に信奉しており、教育政策立案者たちの不明瞭な姿勢を助長している。彼らは、彼ら自身が『愛国的』と呼ぶ主義にのっとって教科書を改訂し、その過程でアジアの近隣諸国を遠ざけている」と書いたことに対する反論の会見となっている。非常に面白いので、ぜひ原文を読んでみて欲しい。

 先の「語学教育と覇権主義」でも触れたが、現政権はジャパン・ハウスを初めとして、海外での「日本」のプロモーションに積極的である。文部科学省は、これを教育の中に落とし込んで、日本の文化を学んだ生徒学生を育て、「日本人としてのアイデンティティを確立」させ、彼らにグローバルに活躍して日本の宣伝をして欲しいと考えているかのようである。

 どこに行っても自分のお国のことばかり話す人間を「田舎者」というと私は思う。

 日本人のアイデンティティは、日本文化を学ぶと身につくのだろうか。それは残念ながら勘違いである。自分が日本人であるということに直面するのは、外国に行ったとき、外国人と正対したときである。アイデンティティは、自分自身を「学ぶ」ことによって生まれるのではない。アイデンティティは、自分とは異なる他者との応答関係の中で生成される関係的なものだ。

 グローバル化の提言の中に、もっともグローバルから遠い思想が入り込んでいることは、笑うべきか、悲しむべきか。しかしこれが私たちの政権の現状だ。