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日比嘉高研究室

近況、研究の紹介、考えたこと

三歳児(♂)の不思議 3つ: なぜ下品/「見える」/戦闘的なのか

f:id:hibi2007:20141206102639j:plain:right:w150久々の子育てネタ。トーゴ氏はいま三歳三ヶ月になった。だんだんと人がましくなって、以前のような「おお、こんな能力を獲得したか!」的な驚きはなくなっており、その点でちょっとブログのネタにはしにくくなってはいる。

が、最近私はなんだか難しい顔をして書かないといけないようなネタが続いていて、気分的にもなんというか修羅道に堕ちたような気分がここしばらく――そういえば振り返ればここ数年くらいかなぁ(遠い目)――続いていたんだが、ちょっと精神的に一段落したように感じているので、気を取り直してこのネタを書こう。すいませんね、どうでもいい個人的な感懐から入って。

さて。三歳児(♂)の不思議。

不思議その1 なぜ下品なのか

覚悟はしていたが、いよいよ来ている。「ち○ち○」「×んち~」は日常語彙で、ハイテンションのときは、創作歌謡まで披露してくれる。「ち○ち○の歌~♪、ち○ち○がバ・レ・タ・歌~♪ △△い、ち○ち~ん」(△△はダーク系の色を充当。「バレタ」は未詳)。歌だけでなく、見せるわ、触るわ、ひっぱるわ  orz...

妻は、困惑しつつ心配しているが、私は男三人兄弟で育ち、男の子文化の中で成長したので、とりあえず耐性はある。

が、それでもいい大人になってそういう文化からもう遠くなってしまっていたところに、この場では伏せ字にするほかないないような露骨なる描写songを聞かされると、もう絶句しつつ、その小さな生きものを眺めるしかないのである。

むろん、世のお母さん達に共通の悩みであるらしい。「男の子 and 下品」でググってみて下さい。約509,000件ヒットします。

なぜ下品なのか。まあ、原初的な性欲の発露の形態なんだと思いますがね。読売新聞の発言小町にも案の定「下品な会話をやめさせたい」という相談があって、そこでは

とくに男子の場合幼児期にシモ方面に異様に関心を示すのは、正常な発達段階なんです。逆にあまりに抑圧禁止すると大人になって歪んでしまうので、基本放置でいいですよ。

http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2014/1021/685710.htm?g=06

などと返答してあって、基本的に賛成なのだが、目に余る下品ぷりを注意するたびに、「ああ、こうして性的規範というのは規律=訓練されていくんだなぁ、生政治は日常に溢れているよ」とか余計なことを考えてしまうのは職業病である。

不思議その2 なぜ「見える」のか

我が家には、トーゴ氏にだけ見える「じいじ」が二人いらっしゃる。一人は、玄関先においてある石のあたりに。もう一人はリビングルームに。トーゴ氏の一人の祖父は一昨年亡くなっているのだが、二人ともそのおじいちゃんではないのだそうだ。

玄関先の「じいじ」にトーゴ氏が言及したのは2歳のころだったと思う。石のまわりで遊んでいて、「じいじがいるねぇ」と述べた。なんだそれ、と思って確かめてみると、おじいちゃんがそこによくいるのだそうだ。うちは前居住者がいる中古の家で、多少ならず気持ち悪いわけだが、トーゴ氏いわくおじいちゃんは機嫌が良いそうで、その石も縁起物の石だと思う(「福神通」と彫ってある)ので、まあ「よいもの」と考えることにしている。

もう一人は名前がある。「べんごーさん」とおっしゃる。トーゴ氏には、いくつかオリジナルの持ち歌があるが、そのうちの一つが「べんごぉさんさん、べんごぉさん♪」という、まったく典拠・伝来ともに不明の歌である。

最初、リビングのじいじには名前がなかったのだが、あるとき妻が「べんごーさんって誰?」と聞いたら、リビングのおじいちゃんだということになった。

ただ、私はこのリビングのおじいちゃんの存在には懐疑的である。このおじいちゃんは最近になって言及されたものだし、こちらからの問い掛けの中で形成=誘導=ネタ化されているような気がするので。

おそらくこれは、imaginary friend(架空の友達)の一種なのだろうと思う。一部の子供が発育段階の中で作りだす、会話相手である。英語版Wikipediaがめっちゃ詳しく、研究も紹介しながら書いているので、興味のある方は参照されたし。
http://en.wikipedia.org/wiki/Imaginary_friend#Research
要は、子供がコミュニケーションなどの社会的スキルを身につけるために編み出す一つの方便だということのようである。

しかし、トーゴの場合なぜ「老人男性」なのかが全然不明。会話を交わしているようすもないしな。

まあ、、、放置しよう。

不思議その3 なぜ戦闘好きなのか

私は男女の性差を本質主義的に考えることに反対である。男だから、こう。女だから、こう。と単純に言えるはずはない。男の子は「男の子として」育てられ、女の子は「女の子として」育てられるので、彼/彼女の心と体には、その社会が持っている「男の子らしさ」「女の子らしさ」の規範がすり込まれていく。

だが一方、じゃあ、人間の体はもともと無色透明で、刷り込みによってすべてが獲得されていくのか、というと、うーん、それもそんなわけはないだろうと思う。

トーゴ氏は最近、年齢相応に活発度が増しているが、棒を見つければ拾って振り回し、テレビで豹の狩りをのようすを見ては猛獣と化し、ピストルを乱射し、「あんパンチ」(アンパンマンね)で突如私の鼻を殴りつけ、相撲を際限なく取るように要求し(遠藤と日馬富士になる。私には白鵬と逸ノ城を要請する)、紙の刀で「けんかしよう」(=チャンバラの意)と持ちかけてくる。

ある種の戦闘性が備わってきている。彼にはきょうだいがなく、テレビで戦隊ものを見たこともなく、あんパンチだって彼の持っているアンパンマンの絵本には出てこない(どうも保育園であんパンチは会得してきたらしい)。

ただ、トーゴ氏はままごとをするし、お医者さんごっこも好きだし、ぬいぐるみを弟・妹に見立てて世話もする。その意味で、「女の子らしい」ことだって、彼は好きである。

どうなんでしょうね。体が彼の振る舞いを導いているところは、たしかにあるような気もする。

心と体と育ちの関係は、面白い。複雑な応答関係を繰り返して、きっと人間は成長していくのだろう。