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日比嘉高研究室

近況、研究の紹介、考えたこと

子供との記憶――少し感傷的

生まれたときに見た風景を覚えている

と言い張っていたのは三島由紀夫の「仮面の告白」の主人公だったが、私はせいぜい3歳か4歳ぐらいの記憶が一番古い。

そのころ私の両親は借家住まいで、裏手に小さな庭があった。正面にコンクリートの壁がそびえていたように思う。草も木も何もない庭で、ただ小さな縁側が張り出していて、私はその庭で弟と遊んでいた。蒲鉾を食べたあとの木の台に、釘をいくつも打ち付け、戦艦を作っていた。

しゃぼん玉の歌がある。〈しゃぼん玉飛んだ 屋根まで飛んだ 屋根まで飛んで こわれて消えた 風、風、吹くな しゃぼん玉飛ばそ〉この歌を聴くと、私はろくに覚えていもしないその借家の庭から見た屋根越しの空を思い出す。しゃぼん玉はその屋根の縁に向かって上がり、消えた。

これらは本当かどうかはわからない。父や母にも聞いていない。ただ、船を作る遊びは確実だ。写真が残っているから。あるいは私の記憶は、写真に強く影響されているような気もする。

こんなことを書いているのは、

最近かなりコミュニケーションが取れるようになってきた息子(2歳半)と過ごす時間のことを考えるからである。

先日、家族で旅行に出かけ、食べたり遊んだりしているときに、ふと、この子はこの今日の記憶を大人になったときに失っているだろうということに気づいた。旅行に行ったということも、牛に触ったことも、鯉のぼりを立てたことも、散歩のお寺や坂道でどう遊んだかということも、覚えてはいないだろう。

そのときに感じた喪失感のような感情は、かなり強い打撃を自分の心に与えた。

もちろん、子供が忘れるのは当たり前だし、自分だって何も覚えてはいない。いや、自分など、最近のことだってあまり覚えていない。この前行った旅行の細部は、すでにかなり摩滅した記憶になっている。それに、2歳半の記憶は覚えていなくても、この先4歳、5歳、6歳になっていけば、どんどんと記憶はたしかになっていくし、その記憶は私との間で共有されて積み上がっていくことだろう。それでよい、のかもしれない。

あるいは、たとえ0歳、1歳、2歳の記憶が無くても、その間に積み上げた経験は、彼にとってとても大切で、彼自身の人間を作りあげていく基礎の一部になるだろう。きっと、そうなのだろう。


――にもかかわらず、私は寂しいと思う。

どうして、そんなに私は寂しいと思ったのだろう。記憶が非対称となっていることに直面したため、かもしれない。

一人の人が、周囲の人の中でその人であり続けることを保証しているのは、記憶である。記憶があるから、友人は私を私と認識でき、関係を保ち、振り返り、積み上げることができる。記憶があるから、私は昨日の私や、数年前の私の延長上に、今の私を置くことができる。

大学時代、一時的に記憶を喪失した友人がいた。

別の友人たちとその友達を病室に見舞ったり、その友達についてさまざまに話したりした。その友人Yを除く友人たちだけで話すとき、YはもちろんYとして噂され、想起された。ただ、直接話すYはもうYではなかった。別の二十歳ぐらいの男が、ベッドの上で困ったように座り、はじめて関係を築く人同士であるかのように、私や別の友人と会話をした。見た目はY以外の別人ではなかった。声もYだったし、会話からうかがえる考え方なども、やはりこいつはYだと思えた。

にもかかわらず、ベッドに腰掛けるYは、Yではなかった。私にとってYがYであるとは、私がYとともに過ごした記憶とともにあるということだったからだろうか。それは、とても奇妙な体験だった。

単なる感傷

といえば感傷だろう。私の言っているのはすべての親が体験することだし、それに子供が成長すればどうということのなくなる類いのことだろう。だが、自分が大切だと思った時間や経験が、共有したはずの経験が、虚無のように消え去っていくというのは、やはりなにかしら耐えがたく、穴ぼこに落ち込むような経験だ。非対称な記憶というのは、人を感傷的にさせるのかもしれない。「私の頭の中の消しゴム」なんて映画もあった。

そう、幼児だけではないかもしれない。病で、あるいは加齢で、記憶に障碍を抱える人はおり、そしてそのことでその人との関係に欠損と寂寥を抱える周囲の人たちも、いることだろう。

親子というのは、

いろいろな意味で非対称な関係だと思う。とくに子供が小さいときには。与える――見返りを求めないで与え続ける、ということをするのが、親なのかもしれない。そういう関係も、やはり長くはないのだろうけれども。

今日も一日、息子はじいちゃんばあちゃんと遊び、うどんを食べ、昼寝をし、セミを捕り、お母さんとプリンを食べ、絵本を読んで寝た。彼は成長してから、今日のことをやはりすべて忘れるのだろう。私もしばらくすると、忘れるだろうか。いや写真を撮り、ブログを書いたから、忘れないだろうか。