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日比嘉高研究室

近況、研究の紹介、考えたこと

「当事者」って誰?「現場」ってどこ?2

「「当事者」って誰?「現場」ってどこ?1」よりつづく)

観察者/報告者の資格

観察者/報告者と、当事者、現場の問題を、もう少し具体的に考えてみたい。

先の記事で私は、真の「現場」、真の「当事者」という考えは放棄した方がよい、観察者/報告者が参加することによって応答が生まれ、その応答のなかで「現場」が立ち上がり、「当事者」が生まれる、と述べた。

では、この観察者/報告者は、誰でも、どんな人間でもよいのだろうか。

私はここしばらく「移民研究」などというものに首を突っ込んでおり、しばしばこうした問題について考えさせられた。たとえば、第二次世界大戦中、米国在住の日本人移民/日系アメリカ人は強制収容所に入れられた。私は彼らが収容所の中で書いた文学作品について、論考を書いたことがある。その時私は、日本で育った日本人の私が、彼らの文学を本当に理解できるのだろうか、自分にその資格があるのだろうか、と自問した。

本当にお前にわかるのか、と迫られれば、口ごもり、戸惑わざるをえない。だが、では、強制収容を経験したものだけがその経験を語れるのか、その経験を持つものこそがその文学をよりよく説明できるのかといえば、必ずしもそうではない、と私は考える。

多少口幅ったい言い方になるが、私には近代文学(研究)の知識や分析手法のストックがあり、移民史についての知識があり、自身の知見を発表する媒体と能力がある。私が観察者/報告者として参与することによってバイアスはかかるだろうが、私が関わることによって始めて、世に出て行く何ものかが、きっとある(たぶん)。

別の例も考えてみよう。たとえば私が、STAP細胞の検証現場に入れてもらえ、記事を書くことになったとする。

……無理である。必死で付け焼き刃の知識を入れるだろうが、ろくでもないアウトプットしか出せそうにない。

よい観察者/報告者の行うこと

こう考えると、よい観察者/報告者が何を行っているのかが見えてくる。まず知識がなければ、目の前にあるはずのものがそもそも見えないし、相手が語っていることもわからないし、語っていないことも察知できない。また、相手側の文脈だけに詳しくても、よい観察、よい報告は望めない。観察者/報告者のレポートを受け取るオーディエンスについての知識も重要である。何が求められているのか、どこに価値が置かれているのか、を知らねばならない。その価値観に従うにせよ、抗うにせよ。

そして最後に、どう届けるのか、の問題。どう語り、どう見せるのか。以上述べてきたように、観察者/報告者が介在することによって、現場は現場となり、当事者は当事者となる。そしてそれらの現場や当事者は、濃淡を持った網の目のように広がりながら生成する。生成させるのは、観察者/報告者の参与の行為である。この意味で、観察者/報告者は、網の編み手である。

より広く、長く、深く、当事者化/現場化を

問題は、この網は、網の編み手によって色が付けられるということ、そして編み手のスキルと編み方によって、規模も密度も方向もかなり変わってくるということである。編み手は透明ではない。透明なふりをしていたとしても、必ず網の目を変えており、色をつけている。レポートをする側も、受ける側も、いつもそのことに自覚的でなければならない。

そして、編み手のスキルによって規模、密度、方向が変わるということも大切だ。私は最近、よく自分の文章の「射程距離」というようなことを考える。自分の書いたものが、どこまでの読者に届くだろうか。どれだけ読者を動かすだろうか。そして、どれだけの耐用年数があるだろうか…。

おそらく、観察者/報告者の立場に身を置くものならば、誰しもこの思いは同じだろう。できるだけ遠く、深く、長く、届けたい。そのために、どんな言葉を、映像を、形を、音を、送り出すか。それに頭を悩ませる。

加わり、対話し、語り直すことが現場と当事者を作り出すのだとすれば、「射程距離」の長い言葉とは、より広い範囲を、より深く、より長く現場として編み上げる言葉だ。そして、より多くの人々を、より深く、より長く当事者として巻き込む言葉だ。それは、あなたはあなた、私は私、という、物分りがよいように見えて、しかし結局は分断と無理解をしかもたらさない言葉とは、対極にある言葉であるに違いない。

自分が当事者だ、ここもまた現場なのだと思える人が増えたなら、きっとものごとは少しずつでもよい方向に進んでゆくと、私は思う。