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日比嘉高研究室

近況、研究の紹介、考えたこと

「当事者」って誰?「現場」ってどこ?1

無駄話

成田龍一さんの『〈歴史〉はいかに語られるか』

先日、大学院の授業で学生たちと議論していて、ちょっと思いついたことがあるので、メモしておきたい。「当事者」というのはいったい誰のことで、「現場」とはいったいどこのことなのだろう、というようなことをめぐる思考である。

考えの発端は、成田龍一さんの以下の文章だった。

〔…〕さまざまな「場所(トポス)」を統合したものとして「現場」は把握されている。
「現場」とはさまざまな出来事が生起する場所であり、遍在している無数の出来事を統御することによって立ちあらわれてくる。すなわち出来事の場所に主体的に参入したときに、そこが「現場」となるのである〔…〕
成田龍一『増補 〈歴史〉はいかに語られるか――1930年代「国民の物語」批判』ちくま学芸文庫p.208

成田さんの元の文脈は、大宅壮一ルポルタージュ「水底の小河内村」(『中央公論』1937年8月)についてのものだが、元の文脈の例はとりあえず今おいておく。

ここで成田さんが言っているのは、「現場」というものは、その出来事や行為が行われているその場所、という狭いものとして考えてはいけないということである。たとえば、ある村がダムに沈むとして、その村、そのダムだけが「現場」ではないということである。そのダムが何のために造られようとしているのかと考えてみる。治水のためかもしれない。電力供給のためかもしれない。では治水や電力供給の受益者は誰だろうか。その受益者達の済むところは「現場」と言えないのか。ダムの反対運動が起こり、デモがくり出されたとする。そのデモが歩いた街も「現場」とつながりを持つ場となるのではないのか。

成田さんの議論は、「現場」を人々が関わる出来事や行為の網の目の中に置き直し、その場所を固定した狭いところから、ネットワーク状に濃淡をもって広がる関係性の場へと変えようとしている。

「当事者」を考え直す

この文章を学生たちと読み、教室で議論しながら、その「現場」にいる「当事者」とはいったい誰なのか、というところに発想が及んだ。「現場」が関係性の場として再設定されるならば、「当事者」もまたネットワーク状の網の目のなかで考え直さなければならない。

この時大事なのは、成田さんが「出来事の場所に主体的に参入したときに、そこが「現場」となる」と書いていることである。この「〜ときに、〜なる」というのが重要である。「現場」も「当事者」も、そこにあらかじめあり、あらかじめいるのではない。人々が主体的に関わろうとした時に、「現場」が立ち上がり、「当事者」となる、ということである。人の関わりによって生成するという「現場」「当事者」とでもまとめられようか。

ただ、成田さんの議論では、誰が「主体的に参入」するのかが明示されていない。それは大宅壮一のようでもあるし、ダムに関係する人々のようでもある。そのどちらもが議論としては成り立つし、そのどちらもが重要だ。

「現場」「当事者」と観察者/報告者

私はここで、その前者の側の問題を、観察者/報告者の問題としてもう少し先に進めて考えてみたい。

つまり、「現場」や「当事者」は、観察者/報告者がいることによって初めて立ち上がるのではないのか、ということである。

もちろん、ダムも村も、観察者/報告者が訪問する前からそこにある。観察者/報告者がいなくても、水没は起こる。その意味においては、「現場」も「当事者」も、観察者/報告者がいなくても成立する。

観察者のパラドックス

一方で、観察者/報告者がいることによって目撃され、知らしめられる出来事も多い。そのような出来事の「現場」「当事者」というものを考えてみる。ここで考えに入れてみたいのは〈観察者のパラドックス〉などと呼ばれている事態である。観察者が観察しているというそのこと自体によって、観察される対象がその振る舞いを変えてしまう、ということを指す。たとえば極端な場合として、全国放送のテレビカメラの生中継が水没を迎えようとしている村に入ったとしよう。そのテレビカメラの前で、村の人は、あるいはダム建設を行う人は、テレビカメラの無い状態と同じでいられるだろうか。

テレビカメラの中継は、このときたしかに「現場」を映し、「当事者」を捉えている。ただし、それは侵入したテレビカメラのまなざしによって、その場のライブな空間において生成された「現場」であり「当事者」である。カメラがない時の村は、そうではない。

だが、カメラがいない時の村が、より本当の村なのだろうか。カメラがいない時の村が真の「現場」であり、カメラが居ない時に存在する人々が真の「当事者」なのだろうか。これは難しい問いである。そうだ、と答えたいのが一般的な感覚かもしれない。だが、もし真の「現場」、真の「当事者」が観察者/報告者がいないときにのみ存在するのなら、真の「現場」、真の「当事者」は、その場にいる人々以外には不可知のものとなってしまう。観察者/報告者が存在しない「問題」は、そもそも「問題」として外部者に認識されず、したがって「問題」そのものが存在しないのと同義となってしまう。

とすれば、真の「現場」、真の「当事者」という考えは放棄した方がよいと私は思う。観察者/報告者のまなざしと語りが参加することによって、応答が生まれる。その応答のなかで「現場」が立ち上がり、「当事者」が生まれる。観察者/報告者と当事者は対立しない。観察者は現場の外にはいない。

「〜にしかわからない」ではなく

以上、ぐじゃぐじゃと考えてきたのは、

当事者 「これは私(たち)にしかわからない問題だ(だから口を出すな)」
非当事者 「これは私(たち)にはわからない問題だ(だから口を挟まないでおこう)」

という不毛な対立が、いろんなところで起こっている気がするからである。これは残念だし、もったいない。

当事者は非当事者によって見られ、読まれることによって、その当事者性を作り直し、鍛え直す。現場は、非当事者に参入されることによって、現場を構成する網の目をより広く、アクティヴなものにする。

水没する村に生まれ、村に生きる人にしかわからないことがある。私はそれを否定するものではない。だが、「わからないこと」は、示され、語られなければ存在しない。それがその人たちにしかわからないものであればあるほど、他者に語られる価値は増す。部外者との応答によってそれは変質してしまうかもしれないが、それでも「わからないこと」がそのまま水底に沈んだままになるよりは、人々の目や耳に伝わっていった方がいいと私は思う。

(つづく 2へ)