日比嘉高研究室

近況、研究の紹介、考えたこと

内面という境目


意外なところに読者がいて驚くこの「番外編:子育て」だが、なかなか続きが書けないでいた。忙しかった、というのもあるが、こちらの観察が成長に追いつかないというのが大きい気がする。たとえば先月はソウル四日間の出張があったのだが、たったそれだけの間でことばを操る巧みさが、かなり進んでいて驚いた。しかも帰宅後最初に私に会ったときに、「恥ずかしがっている」ようすを見せて、その感情の複雑さにもびっくりした。

さて、今回は「内面」のことを書いてみようと思う。

子供の中に「心」や「思考」が宿っていること

は、かなり早い段階で気づく。世の中には「赤ちゃん研究」という学問分野があって、読みやすい新書なども出ているが、それによれば新生児でさえ、簡単な推測の能力を持っていたりするという(開一夫『赤ちゃんの不思議』岩波新書)。

赤ちゃんの不思議 (岩波新書)

赤ちゃんの不思議 (岩波新書)

ここで書いてみたいのは、私の子供の内面の話ではなく、〈私の子供が他者の内面を発見した話〉である。簡単に言えば、自分ではない誰かや何かに、感覚や気持ちがある、ということの発見である。

いくつかの出来事をつうじて、私はそのことを見て取った。

私の家の湯船には、

内側の壁に小さな黒いシミがある。トウゴはそれが気になるらしく、しばらく前からそれを触っては「虫、虫」といっていた(ちなみに発音は「ぶシ」に近い)。手で触って確認しているから本物の虫ではないことは知っているはずだが、なぜか「虫」と呼ぶことを止めない。あるとき、湯船に浸かって彼がこういった。「虫もあったかいね」。

感心した。虫と自分が同じ状況を共有していることを見て取って、自分の感覚と「虫」の感覚が同じだと、類推したらしい。共感、という方が近いのだろうか。

こういうこともあった。トウゴは絵本を読んでもらうことが好きで、膝の上やあぐらの上に乗って、私や妻、祖母に本を読んでもらう。それがしばらく前から、たまに横に並んで一緒に読むようになった。そしてあるとき、本を持ってきて座り、隣に座っている私には「おとうさん、こっち」といって、別の本を指さした。私がその本をもって開き、彼がどうするのか観察してみると、自分も本を開いて読み始めた。「ぱんぱんぱん、ぱんがいっぱい」。で、私も面白いので、指示された本を音読した。「うさぎさんは、自分で作ったしるしに、イスに小さなしっぽをつけました」。もちろん、彼はまだ彼は文章は読めない。だから、丸覚えしている言葉の断片で「読んでいる」。

いろいろな意味で感心した。

子供というのは「一緒」にするのが好きだし、

人が持っているものも欲しくなったりするもので、車のおもちゃで一緒に遊んだり、一緒のものを食べたり、家族が食べているものを欲しがったりすることは、よくあることだ。一冊の本を一緒に読みたがることも、その延長上にある。だけど、別々の本をそれぞれが一緒に読む、つまり「本を読む時間」までも共有しようとしたことは、とても驚きだった。それは自分が本の世界に入っているときと同じ事が、隣にいるオトウサンの内面においても起こっていることを、彼が理解している証拠だと私には思えた。

このころから、人形で遊ぶことも多くなった。うちにはウサギやイヌやパンダなどのぬいぐるみがあるが、彼は義妹にもらったイヌがお気に入りである。ものを食べさせたり、寝かしつけようと子守歌を歌ったり、おむつを替えてやったりする。

こういう彼の発達を見ながら、

他者の内面を見いだす、ということは

いったいどういうことなんだろう、とあらためて私は考えてしまう。以前、平田オリザ氏と石黒浩氏による演劇「ロボット版「森の奥」」を見て考えたことを書いた(ロボット版「森の奥」を見て考えたhttp://d.hatena.ne.jp/hibi2007/20100904/1283612700)。心など持たないはずのロボットに対し、あまりにも自然に「心がある」と感じてしまう私たち人間の能力に、とても驚いた。そして同時に、人の心とは一体何なのだろうと、考えさせられた。

たとえば、ロボットに対し、ある人が「何を飲む?」と聞く。ロボットはその人の方をちょっと見て、ほんの僅かに間を置き、「コーラ」と答える。そういう場面があったとする。みている人は、その「僅かの間」に、〈ロボットが考えている〉ことを見て取ってしまう。

同じようなことは、能の上演においても起こる。表情がないことのたとえとして用いられたりする「能面」は、しかし上演の場においては、憤怒や悲哀、惑いといった多様な「表情」をみせる。表情を表しているのは「能面」それ自体ではなく、観客による「能面」への内面の投影だ。

つまり、他者の内面は他者のうちにあるわけではない。

見る者の心の内にある「他者の心についての類推」――認知心理学では「心の理論」と呼んでいるようだ――が、他者の中に見いだされて、「他者の内面」があるかのように見える、というわけだ。

したがって、子供が他者に内面を見いだし始めたということは、それだけ彼の「心の理論」が発達してきた、つまり彼の心に「他者の心とはこのように動くのだろう」という類推の能力が備わってきたことを意味しているのであろう。そして彼の「心の理論」はもちろん、自分の心の発達を参照枠としているはずである。

むろん、現実の社会においては、心の投影とフィードバックは、より複雑な相互反応となる。私たちは、個人によって精緻か粗雑かの別はあったとしても、みな「心の理論」を備えている。だがその「心の理論」が完全であるわけではない。目の前にいるこの人は今こうであろう、と類推し、その人の実際の反応からその類推の当否を修正していく。その投射と修正のフィードバックの繰り返しが、私たちの心の相互関係の正体なのだろう。

それをさらに押し進めて考えれば、自分の内面でさえ、この種の応答関係から成り立っているともいえよう。ある出来事や刺激に対し、思いも掛けない自分自身の心の動きを観察して、自分自身の心とはこのようなものである、という思い込み(自己についての心の理論)が修正される、ということはしばしば起こりうる。

さてところで、

トウゴ氏と本を一緒に読むときに気づいたことがある。

それは彼が「一緒に」を要請する際に持ってくる本のペアが、決まっているということである。『ぱん だいすき』と『どうぞのいす』。『しょうぼうしゃ しゅつどう』と『しょうぼうしゃ・パトカー いっぱい』などである。最初偶然かと思っていたが、何度か行っているときに、ペアの本に共通する部分があることに気づいた。。『ぱん だいすき』は、そのものずばりパンを買う話だが、『どうぞのいす』にも、10匹のリスたちが焼きたてのパンを食べる場面がある。消防車2冊は、いうまでもなく、どちらも消防車がでてくる。

ぱん だいすき (0.1.2えほん)

ぱん だいすき (0.1.2えほん)

どうぞのいす (ひさかた絵本傑作集)

どうぞのいす (ひさかた絵本傑作集)

カンカンしょうぼうしゃしゅつどう (視覚デザインのえほん)

カンカンしょうぼうしゃしゅつどう (視覚デザインのえほん)

つまり、トウゴ氏はたんに本を読む時間を共有しようとしているだけではなかった。その時間の共有の結び目を、必要としていた。それはパン(を食べること)であったり、消防車(を見ること)だったりした。本の内容が、人と人とをつなぐ、原型がここにあるような気がした。

私たち大人は、

一冊の本の中に知識や出来事や感情や謎などといったさまざまなものを読み取る。私たちは複数の人間が同じ本を読むということに慣れてしまっているが、実はそこで起こっていることは、本の中の要素を媒介にして、同じ本を読んだ人同士が心の一端を共有し共振しあっているということだろう。小説の場合、それはより顕著に起ころう。登場人物の行動や思考や心の起伏に、読者は同調して読み進める。そしてその作中人物(とりわけ主人公)との同調は、作中人物という無数の読者の前に開かれた「依り代」を媒介にして、読者間の同調へと広がっていく。

これから子供が、より複雑な物語を読み始めたときに、どのような時間の共有が起こっていくだろうか。(もしかしたら経験の共有は残っても、時間の共有はなくなるかもしれない。成長に従って、読書はどんどんと孤独なものになっていくから。……さみしい(笑))