日比嘉高研究室

近況、研究の紹介、考えたこと

こどもの眼

大きな原稿を入稿し、学会発表が二つ終わったので、やっと一息である。懸案だった記事を一つ書くことにしよう。

こどもと一緒に過ごしていると、

この子に世界はどう見えているんだろう、ということをしばしば考える。かつては自分もその中に住んでいたはずだけど、もうとっくになくしてしまった世界。

寝転がって、こどもを自分の腹の上に抱き上げて、その上で遊ばせる。ふっ、と自分がかつてそうして父親の上で遊ばせてもらった記憶が蘇ってくる。とても大きかった胸、脚。服のひだや、皮膚の凹凸一つ一つが、信じられない程大きくて、そして近かったような気がする。私の胸や服や肌も、こどもにはそのように見えているのだろうか。


こどもは言葉を覚えつつあるが、いろいろカテゴリ化がおかしい。テレビで平原を疾走する狐を見て、「ワンワン! ワンワン!」という。まあ、、、似てるわな。「穴」という言葉を最近覚えた。穴という形。穴の存在を覚えた彼は、世界のいたるところに穴を発見する。指を、つっこむ。道路の穴。側溝の蓋。保育園のコンクリートの壁。「あな。あな」と言いつつ、指を突っ込む(そこの読者。精神分析はしないように)。自宅の風呂には、窓の際に水を流し込む細長い長方形の溝があるのだが、「窓の際の水を流し込むための細長い長方形の溝」も、「あな」である。・・・まあ、そうだな。

世界のあり方は、言葉とも連動しているし、眼とも連動しているだろう。彼にとって地面は、僕の二倍は近い。眼から手の指までも、三倍ちかく近いだろう。葉っぱやアリや石やクレヨンやミニカーは、すごく眼近なものなのだろう。

絵本を読んでいるときに、

とても面白い体験をいくつかしたから、そのエピソードを紹介しよう。

『うずらちゃんのかくれんぼ』という絵本がある。うずらちゃんとひよこちゃんが、かくれんぼをする話である。かくれんぼして遊ぼう! いいよ! じゃんけんぽん! もういいかい? まーだだよ! もういいかい? もういいよ! うずらちゃんが隠れて、ひよこちゃんが隠れて、もう一回うずらちゃんが隠れて、ひよこちゃんが隠れて、雨が降ってきて、えーん、お家に帰れないよう。そのとき〜、大きな影! わあ、おばけだ! と思ったらお母さんたちだった! お家へ帰ろう! ――出た、〈母の帝国〉。ああいや、その話ではない(笑)

うずらちゃんのかくれんぼ (幼児絵本シリーズ)

うずらちゃんのかくれんぼ (幼児絵本シリーズ)

そういうストーリーだ。さて、うちの息子だが、一番反応するのは、カエルである。いつからか、彼は「カエル」という存在を認知し、いたく気に入り、愛玩している。「グー」、もしくは「グッ」というのがカエルの別称である(最近「かえる」とも言えるようになってきたが)。大人が鳴き声の真似をしたのを聞いて、名前として用いている。

『うずらちゃんのかくれんぼ』には、カエルが登場する。うずらちゃんが二回目に隠れたとき、カエルが潜んでいて、突然飛び出して驚かし、うずらちゃんは見つかってしまう、という段がある。物語のなかで注目すべきなのは隠れているうずらちゃん、もしくは探しているひよこちゃんなわけだが、こどもは潜んでいるカエルを指さして、「グー!」「グー!」と最大の関心をそちらに寄せる。

それはまあ、そういうこともあるとして、驚いたのは次のような出来事があったときだった。以下を見ていただきたい。

最後の場面である。迎えにきた母さんたちに見守られて、うずらちゃんとひよこちゃんが帰って行く。雨は上がっている。おしまい。・・・・・のはずである。が、そこであるとき、こどもが「グー」「グー」と言い始めた。指を指す。以下を見よ。

いた!(・・;) 

「焦点化」という物語論の用語があるが、物語のストーリーとしても、絵柄としても、焦点化されているのは、完全にうずらちゃんたち親子二組である。が、絵本は、ヒトネタ仕込んでいた。気づけばたしかに親子の位置が左寄りになっているといえばなっているが、それは「退場」する場面なので、さほど不思議ではない。まさか、カエルがここで手を振っているとは。。

まだある。

『ファンファン バスはっしゃします』という本がある。けんたと、まこちゃんが、お母さんに連れられて、バスに乗って運動公園に遊びに行く話だ。といっても、バスに乗り込んで、いろんなバス停を経巡り、そこでいろんな町を見て、人を見る、というのが筋になっている。ちなみに、この本の登場人物は、すべて人ではなく動物か、恐竜である。けんた一家も、犬である(ちなみにお父さんはまたもや出てこない ←しつこい)。

さて、こどもはこの本のせいなのか、どうなのかわらなないが、バス好きである。ストーリーはまだあまりわからないので、ストーリーを一応読みながら、バスがどこにあるか、とか、カエルがいるか、とかワニがいるか(ワニも好きだ)、とか探して楽しむ。

あるとき、「運転手さん」という存在を教えることにした。ちなみに、サイが運転手である。「トウゴ氏よ、いいか、これが「ウンテンシュ」だ。バスを運転する。これがハンドル。これを回してバスを右へ左へと操り、アクセルで加速させて、ブレーキで減速、もしくは停車するのだ。いいか、偉い人だ。いや、サイだ。「ウンテンシュ」さんに会ったら、挨拶せねばならぬ。「うんてんしゅさん、こんにちは」だ。」

とまでは言わなかったような気もするが、「これが、うんてんしゅさんだ」としつこく教えた。しつこく教えながら、終わり直前のページにたどり着いたとき、奴が指を指して言った。

「うんえんし」

どこにいるか、みなさんわかるだろうか? ご覧のとおり、このページは見開きである。サイズ感は、交通系ICカードを置いておいたので、そこから推し量って欲しい。さらに特徴的なのは、主人公である「ふぁんふぁんバス」が画面中央にわかりやすく配置してあるが、その他の画面も、めいっぱいさまざまな要素がびっしりと書き込まれている(それがこの絵本の特色である)。正解は、ここである。

拡大する。

「・・・・天才だ」とは思わなかった。「エスパーだ・・・」と思った。

あり得ない小ささである。そして絶対に大人は目をやらない隅である。そして開いてから、「うんえんし」の存在を指摘するまで、早かったのだ。1秒ぐらいだったと思う。知っていた、のだろうか。。 まさか。。 しらなかった、としても、それはそれで「エスパー」である。スキャンの早さが尋常ではないから。

なお、絵柄にも笑った。私にはエサをやっているように見える。バスを運行した運転手さんが、バスを停めて、休憩に入る。おそらく彼は、乗客の目に付かないところで、休憩するだろう。体を動かして、ちょっと外れたところまで散歩に行くかもしれない。手持ちぶさたでタバコを吸うかもしれないし、行き慣れた場所なら、そこで魚にえさをやるのが彼の楽しみになっているかもしれない。

この絵本、「視覚デザイン研究所」の作なのだが、こういう細部が細かく作り込んであって、なかなか面白いのである。

本題に戻るが、

おそらくこどもの視覚は大人とはかなり異なっているのだろう。見えているものを概念と結びつけて我々は生きているわけだが、概念の量が大人と比べて極端に少なく、しかし眼からの情報量は大人と負けないぐらいにもちつつある(細かい床のゴミまでよく見つけるんだ。。。)。

大人は、世界を見慣れているから、モノを見るときにしらずしらずのうちに効率化して見ている。大事なところだけ焦点化して、あとは省略する。そうしないと、疲れちゃってやっていけない。こどもは、そうしていないのだろう。我々大人にはわからないやり方で、我々大人とはかなり異なった秩序において、軽重の階層化を行い、彼らなりの焦点化を行っているのだろう。

「うんえんし」が、息子の世界をどう変えたのかはわからない。しかし、彼の驚異的な「発見」から考えるに、こどもの能力、いや人間の能力というのは、そもそも実はものすごく高機能なのではないか、と思ってみたりする。効率化が、私たちの能力を眠らせているのかもしれない。効率化を解除すれば、私たちもエスパーに・・・(笑)

という、ニューエイジか、北斗の拳か、みたいな怪しい結論にたどり着いたところで、今回は終わりとしておきましょう。