日比嘉高研究室

近況、研究の紹介、考えたこと

子供に見る時間

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眠っている赤んぼうを見ているのが好きだ。音もなく、すやすやと眠るそのようすは、「無垢」という言葉そのものであると思う。

赤んぼうや小さな子供に対して用いられる、「無垢」とか「純真」とか「ケガレのない」とか「純粋」とか「ピュア」とか「まっさらな白紙」とか、似たような形容が大量にあるが、それは人々がこのようすを言い表したいから、様々な言葉を生みだしたのだろう。

自分だけの世界に自足して憂いなく眠る赤んぼうを見ていると、痛いようないとおしみが湧いてくる。たんにかわいいと言うのではない。なぜこういう無言にさせられるような痛みが心に広がるのかと考えていて、それは自分がこの子どもの上に積み重なっていくだろう時間を見ているからだと気づいた。

ある先輩と話していて、

私の両親が孫が五人目であるにもかかわらず、えらく私の子供をかわいがってくれ、連れてこい連れてこいと言うのが不思議だ、と言ったところ、その方は「そりゃ赤ちゃんはやっぱり特別よ」と答えた。そんなものか、と思いつつ、わかったようなわからないような気持ちでいたのだが、この「時間」のことを考えるようになって、その「特別さ」の自分なりの答えが一つ、見つかったような気がした。

私の方に限らず、妻の方の両親も(こちらは初孫だからなおいっそうだが)、赤んぼうのかわいがり方はこちらが驚くほどだ。どうして孫というのはそれほどにかわいいのだろう。育てる義務がなくて、かわいがっていればいいからだ、という答えはよく聞くが、そういう「責任」の問題から、あの種の愛情のかたちは説明できないような気がする。

赤んぼうの上には

未来の時間が重なって見える。それは肯定的なとらえ方がされるし、もちろんそういう「楽しみな未来」を待ちもうける気持ちは自分にもあるが、基本的には赤んぼうの先に続く時間は、消耗と劣化と重圧の時間である。彼の肌、彼の手足、彼の眼と比べ、いかに私のこの体のみすぼらしく衰え、傷だらけであることか。彼の完全に解放された一日と比べ、いかにこの私の一日がさまざまなタスクで過積載のごとくになっていることか。彼はまだ「関係」というものをほとんどもっていない。したがって関係に伴う憂いは、彼の世界には存在しない。そして私は蓄積した関係のもとでがんじがらめだ。

「汚れっちまった悲しみに」という言葉がつい頭をよぎるが、そんなロマンチックなものではない。ため息が出るような、人生の澱の、どうにもならない散文的な沈殿だ。

そしてたぶん、この劣化と消耗と疲弊は、ほとんどの人において年齢に比例する。年寄りほど赤んぼうがかわいい。なぜか。それは赤んぼうの上に見る時間の堆積が分厚いからだ。

私は今年40歳になる。

これはこれで個人史的には衝撃で(笑)、誕生日に向かってため息が連鎖していくことだろうが、それは今ともかくおくとして、私が赤んぼうの上に見通せる未来の時間は40歳までだ。この先の40年の間に、彼の身の上にどのようなことが起こるのか、ほぼだいたいのことは想像がつく。どんな職業に就くかとか、どんな人生を送るかとか、そういうことについての予測ではない。もっと根本的な、身体であるとか、心であるとか、社会関係であるとかの、経年変化・経年劣化のことだ。

今年70歳や80歳になる人々は、この私に倍する長い長い時間を、子供の未来の上に見ることができるというわけだ。そしてその時間にどのようなことが起こりうるかを心の内に想起しながら、赤んぼうの無垢を見ている。その見とおす時間が厚ければ厚いほど、いとおしみは増し、子供の無垢さが完全無欠であるほど、すなわち月齢の小さい赤んぼうであればそれだけ、その無垢さの在り難さは増すに違いない。そして、このいとおしみは、自分自身の経てきた下り坂の重みと不可分だ。だからこそ、赤んぼうを見る人々のいとおしみには、じわりと深い痛みが伴うのだ。