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日比嘉高研究室

近況、研究の紹介、考えたこと

シンポジウム「男性はどこから来て、どこへ行くのか?−−〈男性性〉の再検討」

(3/23追記)USTで中継することが決まりました。お時間のある方は覗いてみて下さい。
http://www.ustream.tv/channel/tokaikindai2012mar



 近代文学会東海支部で下記の通り開催されます。逃げることができず、登壇することに・・・。私の準備はまだまだこれからで、どうなることやらですが、企画としては面白いと思います。ぜひお運び下さい。

シンポジウム・ポスター
http://park18.wakwak.com/~hibi/tokai43pos.pdf
シンポジウム・チラシ
http://park18.wakwak.com/~hibi/tokai43sum.pdf

日本近代文学会東海支部 第43回研究会(シンポジウム)

【日 時】2012年3月31日(土)14:00〜17:30
【会 場】名古屋大学 文系共同館237教室

http://www.nagoya-u.ac.jp/global-info/access-map/access/

〈シンポジウム〉男性はどこから来て、どこへ行くのか?−−〈男性性〉の再検討

パネリスト
飯田祐子神戸女学院大学)「「男」と暴力」
日比嘉高名古屋大学) 「父の語り――近代文学史に父は帰るか」
三橋順子都留文科大学非常勤講師) 「『男らしくない』男たちの系譜
司会・ディスカッサント 光石亜由美奈良大学

(主旨・要旨)

【シンポジウム主旨】
東海支部ではこれまで、「〈少女〉は語る/〈少女〉を語る」(2010年3月)、「文学研究の臨界領域――YOU CAN(NOT) TOUCH WOMAN」(2010年9月)の二回にわたって、〈少女〉〈女性〉をシンポジウムのテーマとしてきた。
 近代化の過程で、また表象化の過程において、常に〈対象化〉される女性を、その〈対象化〉のメカニズム、表象過程における連続性と断絶性、少女・女性表象の生産消費の構造などさまざまな角度から検討してきた。
 これまでの二回のシンポジウムを経て、次にやらなければならないことは、女性または少女を〈対象化〉してきた〈男性〉そのものの〈対象化〉であろう。
 これまでフェミニズムジェンダー研究においては、〈主体〉としての〈男性〉を批判的に扱ってきた。たとえば、家父長制度における家長としての男性、愛という名のもと女性の自由をからめとってゆく夫としての男性、軍国主義を遂行する戦士としての男性など、一個人としての男性ではなく、制度や文化とイコールの関係の男性を仮想敵にしてきたのではないか。もちろん、これは、対象物、客体、被抑圧者としての女性の立場を明らかにし、歴史や文化に埋め込まれたジェンダーの不均衡を指弾するという戦略的な方法であり、成果も挙げられてきた。しかし、一方で、女性の多様性を強調するために比較される男性のイメージは、支配的、暴力的、所有的等々、比較的単純で、紋切型ではなかったか。
 また、こうした紋切型の男性像に対して、男性学・男性論の立場からは、主導的男性像の批判的検討や、男性自身も〈男らしさ〉の呪縛にとらわれていることなど、男性の中の階層性の問題、〈男らしさ〉像の変遷なども問われてきた。
 さらに近年は、「フェミ男」「草食系男子」「女装男子」「イクメン」など、従来の〈男らしさ〉の枠にはまらない男性像が出現している。
 今回のシンポジウムでは、このように一筋縄ではゆかない〈男性性〉〈男らしさ〉の近現代を再検討してみたい。


【発表要旨】
飯田祐子 「男」と暴力

 「男性学」による「男性性」の問い直しの中で、女性に対する暴力はどのように問題化されてきたのだろうか。当事者である「男」と「女」の非対称性は、今もなおきわめて深刻である。脱暴力の試みに学びつつ、根絶が望まれながらも容易には変わっていかない「男」と「暴力」の結びつきについて、考えてみたい。そして、小説はDVをどう描いているのか。女性作家の描き方と男性作家のそれとの隔たりも大きい。島本理生の作品や江國香織『思いわずらうことなく愉しく生きよ』など、女性作家は暴力の被害者としての「女」を描き、男性作家は、西村賢太の一連の作品や芥川賞受賞で記憶に新しい田中慎弥『共喰い』など、加害者としての「男」を描く。個人の選択の自由や欲望の多様性に委ねることは許されず、複雑さの理解をと言うだけでは片付かない、ジェンダー化した身体性の暗部を見詰める機会としたいと思う。


日比嘉高  父の語り――近代文学史に父は帰るか

近代文学を性差や家庭内の権力の問題から考え直す際に、父権の問題は避けて通れない。志賀直哉の「和解」が典型だろうが、抑圧する父とそれに抵抗したり逃亡したりする子、という話型は、近代文学史の中で数多く変奏されてきた。一方、同様に抑圧する父という枠組みを前提としながら、その父の不在を物語の潜在的構造とする作品も多い(「浮雲」など)。本考察は、明示的な抑圧者として批判されるにせよ、不可視化され不在化されて語られるにせよ、それらはいずれも近代文学史上に登場した父という存在の一面しか取り上げていないのではないか、という疑念から出発する。つまり〈圧制者としての父〉はそれ自体が類型的で抑圧的な表象の型なのではないかということだ。むろんこれはカウンターのカウンターとして行われる作業となる。反動的とみなされる危険も伴おう。だがなにもこの報告は、父の権威の復活をめざす野蛮なもくろみではない。文学史の片隅で語られてきた父の語りを、いま私たちはどのように聞けるか、葛西善蔵の「哀しき父」「子を連れて」や島崎藤村の「芽生」「分配」といった私小説を起点に考えようというものだ。おそらく鍵の一つは〈世代〉となる。これにもとづいた発想を、新旧交代=父殺しを枠組みの基盤とする〈文学史〉に、いかにして対置できるのか、考察してみたい。


三橋順子  『男らしくない』男たちの系譜

 日本近代国家(明治〜昭和戦前期)は「富国強兵」の実現のために「男らしい」男を常に求めてきた。
 それは身体壮健であり、家父長たるにふさわしい精神をもち、かつ体格や外貌は欧米人男性に少しでも近づくことが理想とされた。
その方向性は昭和戦後期になっても大きく変わることなく「戦後復興」を担う産業労働者、あるいは「経済大国」を支えるビジネスマンたちも「男らしく」あることを求められ続けた。
 しかし、その一方で、日本社会、とりわけ女性たちの間には、少なくとも江戸時代、あるいはさらに遡って古代〜中世から「男らしくない」男たちへの強い希求があるように思われる。そして、それは近代から現代まで確実に受け継がれている。
 今回の報告ではそうした「男らしくない」男たちの系譜をたどり直し、なぜ「男らしくない」男が時代の寵児(スター、アイドル)になるのかを考えてみたい。そこから日本社会に一貫して流れ続けるジェンダーセクシュアリティ観を浮