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日比嘉高研究室

近況、研究の紹介、考えたこと

『解釈と鑑賞』、休刊

無駄話

『国文学 解釈と鑑賞』が休刊したらしい。

笠間書院メールマガジンで教えてもらった。
http://kasamashoin.jp/2011/08/_109.html

『国文学 解釈と教材の研究』がすでに休刊しており、こういう日が来ることもチラと考えてはいたが、やはり感慨はある。上記のメルマガに紹介されていた@helplineさんのtogetterを見ると、同じ気持ちの人も少なくないようだ。
http://togetter.com/li/172508
(最近twitterにぜんぜんログオンしていないので、このニュースも、みなさんのtweetもまったく知らなかった・・・)

こういう多くの人々の反応を見るにつけ、『国文学』や『解釈と鑑賞』が、実際にそこに掲載されている内容以上に、ある種の役割を持っていたんだなぁ、ということをあらためて思う。それは、一種の「ランドマーク」みたいなものだったのかもしれない。

『国文学』や『解釈と鑑賞』は


学部生として始めて先行研究を調べるとき、まずだれもがお世話になる雑誌だった。日本文学専攻を持つ各大学の図書館や研究室の書架には、ほぼ必ず配架されている2誌。先生の名前をそこに見い出したり、先輩がそこに書いたと聞いて、大学の外に「学界」があり、書店に売られるという意味でジャーナリズムの世界とも多少つながっており、勉強を続けた先には、そこに出て行く道がある、ということをぼんやりと意識させられる媒体。

ランドマーク=目印、というのは、そういうことだ。だから、それはただたんに目立っていた、という意味だけではない。2誌があって、その書き手や読み手や出版社がある種の構造を作っている、その構造を背景としてランドマークは建っている。それを手に取り、読み、書く、という行為は、ヒエラルキーを伴ったそうした構造と関係を持ち、ときにはその中に参入するということだった。

もちろん、同様の機能は、いわゆる「学会誌」が果たしている。だが、『国文学』と『解釈と鑑賞』は、それが書店で売っているという意味において、特定の学会に所属していないという点に置いて、つまりはその間口がずっと幅広い=読者が多い/守備範囲が広い(く見える)という点において、やはり独特のオーラを持っていた。(ちなみに岩波書店に『文学』という雑誌があるが、商業的専門誌という点では同じだが、こちらの方が参入の間口は狭く感じられた。)

皆、2誌がつぶれることは予想できないことではなかった。しかし、予想できたにもかかわらず、これだけの反応が出るのは、そして私自身も久々にこれだけの長文のエントリを書いているのは、そのランドマークが崩落したのをまざまざと目の当たりにしたからだろう。それは日本文学研究の従来的な構造が変わってしまっていることを確認する、あまりにも見やすい象徴的出来事としてある。

で、だ。

私はこの2誌の休刊を悼み、学界の崩落を嘆く、もしくは冷笑するために今日書いているのではない。あえてここで前向きなことを書くぞ。

私は、2誌がつぶれたことを残念だと思うが、それが文学が終わったからだ、とか、文学研究に未来はない、とか、そういう風にはぜんっぜん思わない。

だって、ブンガク面白いから。

文学は、かつてのように教養の指標になったり、日本の近代を批評するための標的の定番だったりというような位置にはもうない。だから、だれもが詩や小説を読むわけではないし、だれもが読まなくってもいい。しかし、大学で教えていると、一定の割合で、必ず新しい「罹患者」が毎年発生する。日本人、外国人問わない。この前も、某大学から二人ほど、「太宰が好きなんですけど、大学院に進学したいです」という方が大学院説明会および研究室訪問に来た。別の大学の、別の専攻(文学部でさえない)からである。正直、その方々の未来のためには多少心配したところだが(だってドクター行っても就職厳しいし(^^; )、ああ罹患者がここにも、と思ったことである。

そして太宰のような純文学だけでなく、ミステリーや歴史小説ライトノベル、他ジャンル作品のノベライズ、ルポルタージュ、ポルノ小説、俳句、短歌、川柳、エッセイなどあわせれば、日本の〈文学界〉のボリュームは、なんだかんだいって相当厚い。文学は面白いのである。読むのも書くのも作るのも、面白い。

研究なんて、その文学界の隅っこに間借りしているだけで、何の力もない、というネガティブな言い方も可能だ。だが、研究は身軽だ。何をどのように研究してもいい。そういう研究の自由さを、ポジティブに評価することだってできる。多様に広がった日本の文学の世界を、どのように切って論じてもいい。文学が面白くなくなったとか、文学研究は斜陽の時代だとかいうことをよく聞くが、そりゃそうだが、なんだかんだいってこれだけの厚みがあるんだし過去の遺産も膨大なんだから、

まだまだできることって山ほどあるだろ?

それやってんの?といいたい。

この日本の社会のなかで、そして日本の文学を読む人たちがいる他の国の社会の中で、「(日本の)文学」というものが命脈を保っていき、その面白さが共有され、新しい読者や作者が生まれていくというマクロなサイクルの中に、(日本)文学研究は位置していると私は考えている。

そのサイクルは、かつてのようには機能していない。どう変わったかはここでは書かない。が、私が言いたいのは、2誌がつぶれたのは、収益のモデルがサイクルの変化について行けなかったのが理由であって、読み手や書き手そのものがどこかに行ってしまったのではない、ということだ。

日本文学研究に関心を持つ読者はいる。

昔より減ったかもしれないが、雑誌の1誌ぐらい十分にやっていけるだけの人数は絶対にいるはずだ。問題は、お金を払わなくてもなんとかなる、と彼らが思ってしまっていることである。「彼ら」とか言っているけど、私だってその一人だ。この前の私小説の特集@解釈と鑑賞はさすがに買ったが、それ以前はいつ買ったか記憶にない。

以前のように、個人で毎月雑誌を買う読者の数はもう期待できない。大学があるじゃないか、と思うかもしれないが、NACSIS-CATで『解釈と鑑賞』を引くと、所蔵大学は600ぐらいだ。ここに出てこない研究室や個人研究者単位の購入を足しても、多く見積もって800ぐらいだろうか。そして何人かの人が言っていたように、中学校高校の教員が買わなくなっている。教育課程の中で文学を教えることの価値/意味が下がっているから、当たり前である。

同じような売り方をしていて、商売が成り立つわけがない。

ここから先は素人考えで、同じ事はきっと誰か本職の人がとっくに考えているだろうけど、売り方を変えてなんとか収益を確保できないものだろうか、と思う。たとえば、

  • 高額の機関売り
  • 低額の個人売り

を組み合わせることで。

高額の機関売り

雑誌は高いが安い。自腹で買い続けるには高いが、大学の予算規模で考えれば、ぜんぜん高くない。この前、日本近代文学会が学会費を2000円いきなり値上げした。ブーブー言った人も少なくなかったが、必要だから我慢した。一年2000円の値上げは対価として十分に払える金額だからだ。たとえば、『解釈と鑑賞』が年4回刊、定価4500円/冊になって、買わなくなる図書館・研究室があるだろうか?

最近、教授会なんかで報告を聞いていると、海外の専門雑誌はどんどん電子ジャーナル化している。そして、その購読料は、べらぼうに高い。だが、必要なら(高すぎて泣く泣く、そして腹を立てながら、だが)専門家は買う。図書館も買う。

低額の個人売り

要は、いま音楽の楽曲が一曲単位でバラ売りされている仕組みを、論文でやる。電子版の雑誌を作るまで行かなくても、紙向けに作った版面のデータを流用して、論文単位で販売する仕組みって難しいんだろうか。一枚あたり15円ぐらいの課金なら、図書館にわざわざ行ってコピーするよりもかなりの割合で、読者はそれを選ばないだろうか。論文を集めるときは、時間的に追い詰められている可能性も高いからね(笑) 図書館に行っている暇なんてない人がダウンロードしてくれるでしょう。遠隔地に住んでいると交通費もばかにならないし。○マゾンみたいに、クレジットカードの番号を入れっぱなしにしっちゃった日には、論文数本なんて迷わず購入でしょう。

ついでにいえば

執筆者の原稿料は原則いらないんじゃないか

と思う。

研究者も、大学院生も、お金よりは「論文を発表した」というそのこと自体に価値を置いている(人が多い)。もちろん、金銭的に困っていると1万円でも十分にありがたいので、そういう人にはできるだけ支払ってあげて欲しいけども(^^; 執筆料は削って、有能な編集者を雇った方が絶対にいい。

企画力

以上書いたすべてについて言えることだけれども、内容が面白くないと、なにをやっても所詮だめである。買う価値があると思われてこそ、泣く泣く高い金を払う。書く価値があると思われれば、金銭的な対価は二の次になる。

学会誌よりもっと柔軟で守備範囲が広く、特集の感度がよくて、執筆者に魅力があって、でも学術誌で質が高くって、読者から書き手へ変わる回路もあって、たまに学界時評とか書誌目録とか作家年譜とかいう“使える”資料も掲載されて・・・っていう雑誌って、作るのそんなに難しいのだろうか。

商業的学術誌って、研究機関の研究成果を「流用」できるところがある。だから、原稿だけで生きているプロ・ライターを相手に編輯をする雑誌とは違う。上に書いた、こんなのがあれば、ってののいくつかは、研究者が日常の授業や研究で誰に頼まれることもなくやっていたりすることだ。それを雑誌のコンテンツに使うことは編輯側にも研究者側にも利点のあることだ。


   *

少し工夫をして、少し汗をかけば、なんとかなる気が私はするんですけどね。楽観的すぎますか?

みんなが買う雑誌は、もうなくってもいい。でも、みんなが見ているランドマークはなくなっては困ると思うのです。