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日比嘉高研究室

近況、研究の紹介、考えたこと

シンポジウム「風呂と近代――統御と侵犯の空間を読む」

下記の通り、シンポジウムが開催されます。かなり面白い発表メンバーに恵まれました。どなたでもご参加できますのでふるってお越し下さい。

なお、このシンポジウムはUstreamで中継を行う予定です。
シンポジウム中継ページ http://www.ustream.tv/channel/%E9%A2%A8%E5%91%82%E3%81%A8%E8%BF%91%E4%BB%A3
中継者サイト http://www.ustream.tv/user/doara758

平成23年度 名古屋大学国語国文学会 春季大会
シンポジウム
「風呂と近代――統御と侵犯の空間を読む」


7月9日(土)午後2時〜午後5時
名古屋大学文学部 237教室


パネリスト :
一柳廣孝横浜国立大学
  「湯煙の向こうに怪異は潜む――島尾敏雄「冬の宿り」から」
光石亜由美奈良大学
  「大江健三郎「セヴンティーン」と〈トルコ風呂〉」
福田眞人名古屋大学
  「風呂と衛生――日本人の入浴」

司会:日比嘉高

[趣旨]
 風呂では人は裸になる。身体がまさに裸形で曝される空間であるその場所は、身体の統御にまつわる諸々の社会的機制がかかる場である。
 近代日本では明治期の公衆浴場の混浴についての議論が比較的著名だろうが、風呂は法、性、衛生、宗教、身体規律の慣習等、さまざまな角度からの問題が交差する結節点だった。個人の生活において、日常的な営為でありながら、裸体となって自身を洗うという行為は、一つの非日常的な時空に参入する瞬間でもある。心身の解放、禊ぎ、幽霊話等々が思い浮かぶ。一方、公衆浴場に目をやれば人々の社交の場としての側面もあり、ツーリズムの形成とも連動する温泉場という興味深い空間もある。以上いずれも、近代以前の慣習を引きずりながら、近代以降の社会的機制を受けて変容しつづけている、我々の社会の大切な一断面であろう。
 近代文学は、しばしば作品の中の重要な/ささいな仕掛けとして、この興味深い「場」を表象してきた。今回は、近代文学・文化の研究者である一柳廣孝氏、光石亜由美氏のお二人に加え、比較文化史・医学史がご専門の福田眞人氏をお迎えして、近代の風呂をどう読むか、議論したい。