日比嘉高研究室

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ロボット版「森の奥」を見て考えた


この前(23日)、「ロボット版「森の奥」」を見てきて、すごく面白かったので、メモしておこう。

この演劇が上演されたあいちトリエンナーレのサイトの紹介によれば

「現代口語演劇理論」に基づき、緻密な劇世界を織り上げる演劇界の旗手・平田オリザと、自分そっくりに、精密にコピーしたロボット「ジェミノイド」で知られるロボット研究の第一人者・石黒浩。世界的に活躍する2人の才能がタッグを組み、大阪大学で進めている「ロボット演劇プロジェクト」の初の劇場公開作品。世界初演
中央アフリカ・コンゴに生息する類人猿「ボノボ」を飼育する研究室で、サルと人間の違いを研究するロボットと人間たち。その会話から「サル/人間/ロボット」のあやうい境界線が浮かび上がる...。
舞台上でロボットと人間が「ごく自然に」演じ、対話し、関わり合う。近未来に訪れるであろうロボットと人間の在りようを舞台に表現し、観客がロボットに対して「感心」するではなく「感動」する、先例のない演劇作品であると同時に、創作・上演のプロセスがそのままロボット研究分野にフィードバックされ、公演全体が「演劇」と「科学」を横断する先端的な「実験」となる、画期的なコラボレーション。

http://aichitriennale.jp/artists/performing-arts/oriza-hirata-ishiguro-laboratory-osaka-university.html

という企画。

私はこの企画への関心を、最初に石黒浩さんの文章を読むことから持った。彼の主張はものすごくラディカルだ。


乱暴な要約になるが、要は人の心は、その人の「中」になんてないんじゃないか、というものだ。ロボットには心はない。ロボットには感情はない。しかし、ヒトのように話し、ヒトのようにふるまうロボットに接すると、ヒトはあたかもそのロボットに心が、感情があるかのように「錯覚」してしまう。まあ、ここまでは普通だ。石黒さんの文章が面白かったのは、「これって、実は人間でも同じなんじゃないの」という転倒を示唆したところだ。私の接している彼女は、私の話している彼は、当然「心」をもっているはずだが、その在るはずの「心」は、実は他ならぬこの私が「仮想」しているものではないのか――。うーむ、ラディカル。

さて、というわけで、私はロボットの「心」のありどころを、「森の奥」に見に行ったのである。

もっとも印象的だったシーンを挙げる。カーテンコールである。平田オリザさんや役者さんには恐縮だが、舞台が終わった直後の「挨拶」の場面が、その日私がもっとも強い印象を受けた場面だった。

最後の場面を終わり、会話を交わしていた2体のロボットが、舞台を去る。間を置いて、役者たちがさあっと並んで入ってくる。劇空間の緊張が、カタルシスをともなってほどける瞬間。演じ終わったロボットたちも、最後にゆっくりと進んでくる。拍手。拍手。観客たちに挨拶を済ませた役者たちは引き上げる。ロボットも引き上げる。だが、彼らのスピードは遅く、2体だけが残ってゆっくり戻っていくかたちになる。拍手は止まない。観客は、そのロボットに向かって手をたたく。ロボットに。ロボット? 誰に? 「彼ら」はモノだ。プログラミングされて、決まった反応を返すように設定された機械。しかし、私を含め、手を叩いている人たちは、たしかにそこをゆっくり進む2体のロボットに、演技し終えた役者に近似した「人格」や、あるいは「主体性」とでも呼びたくなるような何かを感じていたと思う。

これは、異様な体験だった。あまりにも自然に、そこに動くロボットに「人格」があるかのように賞賛の感情を向けてしまう自分。プログラムされ、「会話」しているように見せかけられ、意志を持って動いているように見せかけられ、「考えて」いるように見せかけられていることなど、百も承知であるはずなのに、そこに「人格」を見てしまう。

(書きたいことの主意とはズレるが、ポイントはたぶん《一つの人格を仮想できるだけの継続的かつ一貫した反応の蓄積》だと思う。声質、間の取り方、反応の仕方、思考法など)

いまとりあえず「人格」と呼んでいるが、もちろんそれは正確ではない。

演劇は、サイトの紹介にあったように、猿とヒトとロボットの差異を考えさせようというものだった。ロボットとヒトの境界は、どこにあるのか。脚本は、この問題に対し、いくつかの補助線を引いていたと記憶する。ロボットは同情するか。ロボットは残酷さを感じるか。ロボットは言葉の裏の意味を理解するか。ロボットは嘘をつくか、などなど。率直に言えば、この手の思考の方向は、世にある凡百のロボット・ファンタジーと大差はない。

私がこの演劇を見て考えさせられた未来は、ロボットとヒトの境界を問わねばならないような方向に進む未来ではなかった。ロボットは、どこまで行ってもロボットである。人間は、そのことを誤解したり脅威に思ったりしない。だが、にもかかわらず、人間はロボットに親しみ、ロボットに腹を立て、そしてロボットを愛する。ロボットは、ロボットであるがまま、「人格」を、ヒトによって「幻視」され、人はそうすることを自然に受け入れる。

ロボットはオン/オフが可能で、オフになったらただの物体だ。ロボットは壊れても修理が可能で、直らなかったら置換さえ可能だ。だからロボットは人間のようでもなければペットのようでさえない。それはモノだから。機械だから。しかし、人間はその物体に「人格的な同一性」を見いだせる限り、愛着を持つことができるだろうと、私は感じた。ロボットの「人格」は、人の「人格」とは違うし、ペットの「性格」とも違う。複製可能な、人工的反応のかたまり。だがそれで何の問題があるというのか?

私が見に行った回では、カーテンコールの最後の最後で、ロボットのバッテリーが切れた。その1体は、そこで止まり、「モノ」になった。まぎれもなく。

カーテンコールという「場」は面白い。それまで仮空の「役」を演じていた役者たちが、「素」に戻って出て来る。虚と実が入り交じる時空間。彼/彼女はつい先ほどまでの「彼」「彼女」であって、もうそうではない。カーテンコールに答える役者さんたちの顔を、まじまじと、新しい目でわれわれが見つめるのは、その虚と実の境界を見極めようとするからだろう。

平田オリザ氏の今回の演出では、舞台は「開演の前」から始まっていた。予告された開演時刻の前から役者(知らされていない観客は、「係の人?いや、役者?」と思っている)が短い会話を交わす。虚構と現実との境目が、当初から曖昧にされている演出だ。

カーテンコールにロボットを出すということに、平田さんがどこまで意味を込めていたのか、私は知らない。だが、この始まりと終わりは、呼応する。演劇という虚と日常という実の境界を曖昧にして始まった「森の奥」は、演じることと素に戻ることが交差するカーテンコールにおける「役者の身体」を最後に提示して終わる。その虚実のあわいの頂点にあったのが、カーテンコールに答える役者としてのロボットの「身体」であり、そしてすべてのエネルギーを消尽して停止した物体としてのロボットの「身体」だった。

ロボットは演じない。すべてが決められたプログラムなのだから。あるいはロボットはすべてを演じる。すべてが決められたプログラムなのだから。同じ事だ。だから、ロボット役者のカーテンコールは、人間の役者のカーテンコールと同じではない。虚と実の境目が、ない。「森の奥」の最後に現れたのは、そうした人の虚実とは別の虚実を生きる、ロボットの「人格」であり、ロボットの「身体」だったように思う。

ロボットは私たちが予想しているよりもはるかに容易に、私たちの生活圏に入ってくると、私はこの日感じた。私たちの心は、本当に、驚くほど柔軟だ。