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日比嘉高研究室

近況、研究の紹介、考えたこと

最近いただいた本 その1

漱石はどう読まれてきたか (新潮選書)

漱石はどう読まれてきたか (新潮選書)

 なんだか、「最近いただいた本」シリーズは石原千秋本率が異様に高いわけだが、いただいた本をそのまま紹介している結果なので仕方がない。

 今回の本は色々考えさせられる面白い本であった。近代文学関係の本に、類書はない。まじめに最初の方から読んでいっていて、「ああ、これは科学系のライターが書く噛み砕き本的なのを狙ってるんだな」と思ったら、ちゃんとあとがきにそう書いてあった。そう、そういう性格の本なのである。


 ざぁっっと通読して、これができる研究者が、いったい何人いるだろう、と考えた。もちろん「こんなことをやりたいと思う奴などそんなにいない」とか「こんなことをやる意味があると考えるやつは多くない」とか、そういう声(非難)も聞こえるような気がするが、そしてまあある意味「物好き」な作業ではあると言うべきなのだが、私はこの本はすごいし、あらためて石原千秋氏はすごいと思った。

 研究者にとって、どの論文が優れており、研究界の配置が通時的共時的にどうなっているかを把握する能力は、決定的に重要である。これが欠けていたり不十分だったりすると、「なにがどうすごいのかわからない」ままに研究をすることになる。そんな状態の研究者に、いい論文が書けるわけはない(たまに本人は知らずにいい発見をする学部生の例のようなことはあるかもしれんが)。

 まっとうな研究者は、だからたいてい自分の得意分野に関して、そういう「年表」とか「地図」をもっている。ここまでは普通。この本が、そして石原氏がすごいのは、(1)その対象が漱石研究だということ、(2)それを一般の人向けに解説してみせたこと、である。

(1)漱石研究は膨大である。そして少し前まで批評理論の主戦場だった。このことは、まずこの本が恐ろしい量の文献の読解・咀嚼と選別作業の上に成り立っているということ、そしてそうした研究の横にあった批評理論や思潮の動向への目配りも同時に兼ね備えているということ、を意味する。ふつう、できない。そしてやりたくない。

(2)研究の世界は狭い。深く掘る。院生のころは闇雲に掘っていけばいいが、人前で話す機会が増えるようになる頃から、好き勝手掘り進んだ穴を、どうやって人様にお見せするべきかということを考えるようになる。で、そちらの方向に関心がある人は、文体を変えてみたり、入門書を書いたり、出て行くメディアを変えたりする。(関心がなくて、さらに地中深く掘り進む人もいる。それはそれで悪くはない) 石原さんの最近の仕事は、こういう方向だった。

 が、今回のはちょっと違った。自分の知見じゃなくて、積み上げられてきた漱石研究の知見(自分のも他人のも)を、開いて見せた。この方向は、かなり大事だ。そして可能性がある。文学好きの一般読者から専門家まで手に取る種類の本だ。類書が、もっと出ていいんじゃないかと思った。ただし、ナビゲーターの質が問題だが。自分自身の専門領域で、同種の本を書くことを想像してみる・・・・誰にでもできることではないぞよ、これはやはり。

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追記:あまり褒めてばかりでも能がないので、多少批評しておくと、石原氏自身認めているように、評価・整理の基準は氏の判断に基づくから偏りがないわけではない。たとえば、ポスト・コロニアルの問題系には、総じて氏は点が辛い。