日比嘉高研究室

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広島訪問を振り返り…


 これを書いているのは台北で、いま6月18日である。広島の訪問メモは、ツイッターの方に書いておいたので、もう一度書くのはやめておくが、台湾滞在をへて改めてちょっと考えさせられたことなどもあるので、雑感を書いておこう。


 広島の「地霊」は濃かった。オカルト的な意味ではない。オカルト的な意味ではないが、だがこう呼びたくなるような雰囲気、つまり生者も死者もともにその街に強い思いをかけており、それが街の雰囲気を規定していることが、歩きながらひしひし感じられた。私はデジカメを持って、よろこんで色々撮りまくったが[写真は被服工廠跡]、いくつかの場所ではカメラを向けられなかったことを覚えている。(オカルト的な意味じゃないですよ、しつこいけど。何か写るんじゃないか、とかそういう。) そうではなくて、気軽にカメラにおさめられないな、となんとなく感じたということである。

 土地には、街には、建物には、時間や思いや記臆が堆積している。それは限りなく興味深いことだが、時に引き受けきれないほど重い。しかしこのことは、次の「台湾訪問を振り返り…」に書くことにし、いまは違う方向に話を向けよう。

 ここのところ、広島大と名古屋大と台湾大で、同じ作品を使って話をした。母語の外にある文学の話である。それぞれ求められる場が全く違うので、それにあわせてアレンジして話したが、いずれも田原の詩と、リービ英雄の「千々にくだけて」を材料に使った。

 材料を使い回す事自体はあまりほめられたことではないわけだが、短期間のうちに違う相手に、違う文脈で、同じテキストを、違うアレンジで論じる作業は、ものすごく面白い経験だった。名古屋大では、エクソフォニー(多和田葉子)のおもしろさが今イチぴんと来ていないらしいことが感じられ(まあ一年生だし)、いかに彼らを「当たり前の日本語世界」から引きずり出してやろうかと、マイクで煽った。広島大では「千々にくだけて」が原爆の記臆に触れているところを話すときに、ものすごく緊張した。やっぱりそこだけ会場の雰囲気がかわったように、私には感じられた。台湾大では、リービ英雄より圧倒的に田原が受けた。それは予想の範囲内だったが、日本とアメリカの狭間で9.11と原爆(第二次大戦)のことを書いた小説を、台湾で話すことの「距離」は、私の想像を超えていた。リービ英雄は、台湾の学生には遠い。もちろん、これは作家の責任ではなく、それを論じる私の責任だ。遠く感じられたものを、そうでなくするのが自分の仕事の一つだと思うから。

 違う場所に立つことは、私に違うパースペクティヴをもたらし、違う価値体系に出会わせ、そして違う関係性の編み目の中でふるまうよう要請してくる。別の土地に出かけ、別の街を歩き、別の人たちと話すことは、私を混乱させ戸惑わせる。深く関わればかかわるほど、戸惑いは増し、引き受けられない重荷がのしかかる。ホームで新入生を相手に景気のいいことを言うのは簡単で気分がいい。だが広島で原爆のことを話し、台湾で植民地のことを話すとき、私は自分の言葉の軽さに暗然とし、口をつぐみたくなる。