日比嘉高研究室

近況、研究の紹介、考えたこと

アップルと検閲

 今朝の新聞で気になる記事を読んだ。iPadの発売騒ぎのニュースの一角に、ボイジャー社長の萩野正昭さんへのインタビュー「「検閲」で本偏る懸念」という記事がある(『朝日新聞』2010年5月28日朝刊26面)。萩野さんによれば、アップストアiPadiPhone用の電子書籍配信ストア)を通じて「アップルに関する本2作を配信してもらおうとしたが、アップルから、自社について言及したものは販売できないとして排除された」。また2008年7月から2009年5月にかけて、ある出版社の依頼でアップストアへ申請した458本のコミックのうち、161本(約35%)が配信拒否されたという。そのうち、「多くは暴力的あるいは性的な描写を理由とする拒否だった。だがほとんどは、どこの書店にも並んでいるコミックだ」ったという。

 裏ときちんと取る必要はあるが、ひとまずいま萩野さんと朝日新聞を信じるとすれば、これはかなり大きな問題だ。

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 本屋の店頭に、何を置いて何を置かないかを決めるのは書店員だから、別にこんなのめずらしくないでしょ、と思う人がいるとすれば、それは誤解である。アップストアなどの電子書籍配信サービスは、書店と取次(本の流通会社)を兼ねる存在であり、ある部分で出版社をも兼ねる存在に今後なっていく。アップストアの問題は、単なる一書店の問題とは次元が異なる。

 アマゾンの成功を見れば分かるように、この手のビジネスは大きければ大きいほど信用度もサービスも上がり、そしてまたそれによって大きくなるという傾向がある。アップストアのようなその可能性のある会社が、「検閲」をすでに行っているということは、社会的な影響が相当に大きいと考えなければならない。私企業だから自社の判断でそれを行っていい、という理屈は、サービスがある規模以上になり、人々の生活文化に深く広く関わっていったときには、もう通らないと私は思う。アマゾングーグルヤフーも、もはや公器の一種だと考えて議論すべき時代だ。

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 検閲という行為には、たぶん二つの問題がある。一つは伝えられるべき情報が伝えられなくなるということ。戦前の発売禁止や、伏せ字(○○○○とか××で置き換わっているもの)を思い起こすといい。日本国内には出版に関する法律がすでに存在しており、表現して良いことと許されないことの境界が、数多くの裁判や議論を積み重ねながら作りあげられてきている。アップストアがやっていることは、そうした法にもとづく規制の上に、独自にさらなる規制をかけているということである。

 しかも問題なのは、検閲の痕跡が残らないということである。最悪の検閲とは、見えない検閲であるという言い方を聞いたことがある。法による発売禁止や伏せ字は、告知がなされ、あるいは本文に検閲の痕跡が残る。我々読者は、そこに権力が行使されたあとを見ることができ、我々がその権力のもとで読書を規制されていることを意識できる。

 一方、戦後のGHQによる検閲は、痕跡を残さない方向を選んでいたらしい。伏せ字という「傷」を残さず、「きれいな本文」として読者の手元に残るような方針だった。ただし、GHQ時代は占領下だった。頭上に占領軍がいて統治していることは誰の目にも明らかだったはずだ。

 デジタル時代の検閲=フィルタリングは、より不可視になる。中国国内での例が有名だが、グーグルがその検索結果にいくらかのフィルタリングによる操作をかけていることはもはや周知の事実だろう。これがもたらすのは、事実上グーグル利用者にとってフィルタリングによって「消された」サイトは、存在しないも同様となり、そして存在しないことそのものを気づくことさえできないということにある。

 アップストアの検閲は、検索結果へのフィルタリングとは違うが、やはりデジタル時代に固有の徹底した「消去」を可能にしてしまうかもしれない、という恐れを感じる。紙の本は、物として出されるために、たとえ発売禁止処分を受けてもそれを逃れた本が生き残っていたりする(戦前の場合、いったん作って、その上で検閲を受けるため、物としては存在する。それが「流出」したりするわけだ)。だが出版と流通と書店を兼ねる企業が検閲という権力を行使した場合、本はそもそも生み出されることさえできない。

 検閲のもう一つの問題は、萎縮効果である。これは先日来の東京都の児童ポルノ規制の問題でも話題に出ていたと思う。検閲を受けた結果、出版計画に狂いが出たり、あるいは計画そのものが中止になった場合、それは経済的な損失として出版元に跳ね返る。ビジネスとして行っている以上、そんな損失は誰も受けたくない。自然、危ない橋は渡らなくなる。つまり、「児童を対象とした露骨な性描写が規制の対象ですよ」というルールが法的な意図であったとしても、「しずかちゃんのお風呂シーンも危ないかもしれないからやめとこっか」という、過剰な反応が必ず起こる。検閲は、その周囲にそれに2倍3倍する萎縮の波を波及させる。表現する側にとって、これは大きな足かせとなる。

 ちなみに言えば、戦前の伏せ字は検閲によって政府が行っていたと思っている人が少なくないようだが、あれは基本的に出版社と著者による自主規制である。検閲を通してもらうために、これだけ伏せました、という形にして内務省に出したのである。

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 アップストアは、今後も「検閲」を続けるのであれば、少なくともその指針を明らかにするべきだと私は考える。それを示さないまま「検閲」を続けることは、出版文化の自由と読者の権利に対する重大な挑戦である。

 今回の問題は、アップストア以外の流通ルートが確保されれば、現実的には大きな問題ではなくなる。その意味で、多くの選択肢が生まれることに期待したい。電子書籍時代には、本の作成コストが劇的に下がるため、より多様な出版物が刊行可能になるだろう。それを読者の手元にきちんと届けるための、公正で自由な仕組みが確保されることを祈る。