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日比嘉高研究室

近況、研究の紹介、考えたこと

シアトル滞在 まとめ編


 続きはまた今度、とかいっているうちに、三週間の滞在も終わろうとしている。ありきたりの言い草だが、三週間は長いようでいて短い、というのが率直なところである。

 さて、備忘録をかねて、ここでの三週間についてメモと報告を書いておこう。

シアトルへは客員研究員として来ている。

 正確に言うと Resident Scholar というやつで、シアトルにあるUniversity of WashingtonのTed Mackさん(日本近代文学がご専門)が呼んで下さった。Tedさんは近代文学のなかでも、最近はとりわけブラジル移民の日本語文学および出版文化に関心を持っており、アメリカ移民の文学及び出版文化の研究に葦を突っ込んでいる私と、研究の対象も関心の持ち方もたいへんに近い。と言うような縁で、ここ数年いろいろご一緒する機会があったのが、今回こういう形につながった。本当にありがたい機会である。感謝。

 ここでは、Tedさんが開講している大学院の授業にアドバイザーのような形で参加することが求められている。内容は目下進行中のことなので詳しく書けないけれど、上に述べた領域の基礎的な調査研究である。なかなか、面白いです。いまにどこかに報告を出したいと思っているのだが――

その他にいくつかイベントにも参加した。

 5月の7-8日と、ノーマ・フィールドさんがワシントン大に来ていて、講演とワークショップがあった。講演は「What Counts as Literature?: The Astonishing Revival of The Cannery Ship (1929) in Recession-era Japan」というので、最近の日本の「蟹工船」ブームを考えるもの。ワークショップの方は、やはり小林多喜二の「党生活者」などの作品をめぐるディスカッションであった。

 5月9日には〈満洲〉をめぐるワークショップもあった。これは全部で7人ぐらい登場するもので、集まった人数は多くはなかったけれど、歴史学から文学、文化人類学など幅広い視点から議論されていて、勉強になった。

この満洲の方の議論を聞いていてあらためて思ったのだが、

 すべてとはもちろん言わないが、アメリカ流の地域研究は、概して論の構えがでかい(と日本人研究者には思える)。個別のテクストの分析と、日本の大陸進出のイデオロギーとか、満洲にいた人々のアイデンティフィケーションとかを、一度につなげて論じたりする。というか、そういう大きな(と私には見える)問題を論じることが、そもそもの目的であるようだ。

 でどうやってつなぐかというと理屈=Theoryでつなぐのである。だから、満洲馬賊の話題にドゥルーズ=ガタリの「戦争機械」が援用されても驚いてはいけない。まあこれはさすがに極端な例(実例です)だったようだが、まあそんな具合である。

 学生達は学部の途中ぐらいから、フーコーやらバトラーやらを読まされ、それをどういう風に使うかということを習うのだという。本屋にFoucault readerとかが並ぶ理由も分かる気がする。

 こういうタイプの研究にはいいところも悪いところもある。ある対象を論じるときには、なんというか「どれぐらいの倍率のレンズを使うか」というような問題があるように思う。ものすごく細かい顕微鏡でしか見つけることのできない問題機制もあれば、上空からの鳥瞰映像でしか発見できない問題機制もある。理論を使って、巨大な範囲をわずかなテクストの精読を梃子にしながら論じきるというやり方は、その「倍率」でしか出せない問題の構成と視界を我々に与えてくれる。それはいわゆる地を這う実証では絶対に実現できないビジョンである。うまくいくともうそれはものすごくかっこよくて、刺激的で、ああこれはこれでもできるなぁと真似したくなったりするのである。
 もちろん、下手にやると、それは「寝言」にしかならない。
 悪いところは、やはりどうしても細部をぶっ飛ばすところである。まともに資料を読んだことがある人間ならすぐにわかるが、一次資料というのは矛盾だらけである。きれいに同じ方向を向いているなんてことは、まずありえない。あったとしたら、それは見ている人間の目にそもそもバイアスがかかっているのである。資料から論を立ち上げるときは、そういうバラバラな資料体から四苦八苦してなんらかのフォーメーションを探し出す。そこに論者の腕がかかっている(と私は信じている)。鳥瞰図的な研究は、細部を飛ばさないと不可能である。だから、そりゃその資料を使えばそうでしょうが、そのすぐ横にこんなんあるじゃないですか、的なつっこみが、どうしてもつきまとう。しかも下手くそな鳥瞰図は理論「を使うために」その資料を読んだりするので、そら深読みというもんですよあんた、という結果になったりしちゃうのである。

ところで理論を使うときの手続きのことなのだが、

 さっきアメリカの学生は使い方を習う、と書いたが、これは思考面のことだけではなく、学術的なマナー、つまり引用の仕方やら知的プライオリティのことやらを、がっちり教え込まれるんだそうだ。まあ、システマティックにではないが、日本の大学も、普通の先生はそういうことを学生に教える(よね?)。

 私がアメリカの発表やら論文やらを読んでいて、そうだよなぁ、と思うのは、ちゃんとフーコーやらデリダやらの超ビッグネームでも関係あるならばちゃんと引用してくるところである。

 他の分野ではどうか知らないが、最近の日本の近代文学研究の発表や論文では、「フーコーはこう言っているが」とか「B・アンダーソンによると」とか、そういうことは書かなくなっている。やらなくなっている、のではないと私は思う。一昔前だったら嬉々として書いていたところを、それと書かずにわかる人にはその発想が下敷きにあるのが分かり、わからない人にはべつにわからなくても普通に読めるように書く、という風になっている、気がする。本人達に悪気があるわけではない。剽窃しているだなどとは夢にも思っていない。ただ、もう常識の範囲だからわざわざ注を増やすのも面倒だし、それに今さら「サイードは」とかやってもなんだか虎の威を借りているようで・・・的な「配慮」が働いている、気がする。いやこれは全部私だけのことなのかもしれないが。でも、そんな気配を感じる。

 明示的に引用しない、というのは単に流行の身振りというだけかもしれないが、たぶんそれだけではなくて、根底的にはそういうビッグ・ネームたちとの距離感の問題があるように思う。フーコーデリダもバトラーもアンダーソンもサイードも、海の向こうの存在。いや、もっと隔絶しているかな。「世界」が違う存在。だから、近代文学関係の研究者なら古かろうがビッグ・ネームだろうがなんであろうが関係あれば引用しなければならないという強迫観念に駆られるが、フーコーはひそかに下敷きにしてもとくに痛痒も感じない的な感覚が芽生えるのかもしれない。どーだろ。

2% MILKの謎

 愚にも付かない蛸壺的な長文に、ここまで付き合って下さった貴方に最後の息抜きの話題で御礼を(笑)。

 いま滞在しているホテルというかモーテル?には、無料の朝食が付く。ありがたいことだ。三週間まったくメニューが変わらなくても、無料なら文句はいえない。メニューもなにも、コーヒーのポットとジュースーサーバーと市販のマフィンと市販のヨーグルトと市販の簡易オートミールと、カプセルトイ(我々の地方では「ガチャガチャ」と呼んでいた小銭でおもちゃを出すあれね。ガチャポン・ガシャポン・ガチャとも)の形式でもってコーンフレークを出すはじめて見る機械が、置いてあるだけなのだが、もちろん無料なら文句は言えない。あ、果物もあったな、一応。

 さて、問題は、そのコーピー・ポットの横にある「2% MILK」と書いてある謎のポットだ。むろん、それがコーヒーに入れるものであり、かつコーンフレークに注ぐものであることはすぐに理解できる。私が理解できないのは、

じゃあ、残りの98%はなに?

ということなのである。

 日本のスタバとかがどうなっていたかいま記憶にないが、アメリカではコーヒーに注ぐ用のミルクが、牛乳そのままから、低脂肪、half&halfというようにいくつも選択肢があったりする。しかし、2% MILKって見たことあったっけな・・・ しかも、このホテル、二つミルクポットが置いてあるのはいいが、なぜか両方とも「2% MILK」なんだよな。選ばせろよ。なぜこんなにこだわっているのかというと、これ、お腹にくるんですよ・・・・ 途中で気づいたんだが、因果関係がある食材はこの2%君しか考えられないのである。私は、外国でも、たいていのものは食べても平気である。生水も、あえて飲みはしないが、別に避けたりもしない。友達が腹をこわしても自分は平気だったりする。そのオレをして調子を崩させるとは・・・ なにやつ、2%、いや98%・・・・

2009.5.16追記

 あのあと、「2%MILK」とは「脂肪分2%のMILKのことだ」と教えていただいた。聞けば、当たり前のことである。人間、疑心暗鬼になると妙なことを考えるものだ(^^; ちなみに、その時議論になったのは、たぶん悪いのはそのMILKそのものではなく、MILKの保管状態なのではないか、ということであった。大いにありうる話である。だって、ポットだからねぇ。継ぎ足し継ぎ足しやってそうな気すらするよ。あ、また疑心暗鬼が(笑)