日比嘉高研究室

近況、研究の紹介、考えたこと

八百卯、閉店 & 「檸檬」論

さよなら、八百卯

 八百卯が閉店したらしい。八百卯は、梶井基次郎の「檸檬」で、主人公の「私」が檸檬を購入する店。

 「檸檬」といえば丸善だが、登場する丸善麩屋町三条時代の店で、ここからはとうの昔に移転していた。2005年までは河原町三条下がるで営業していたその丸善も、いまやカラオケ屋。営業中は、それでもしばしば檸檬を置いていく客がいたらしい(丸善の店員さんに聞いた)。

 そうしてまた今回、一つ京都の〈土地の記憶〉が消えた。この店は、京都の文学散歩では定番コースだったし、数少ない「現役の証人」だっただけに、残念である。

実は論文を書いていたのですが

 このニュースを新聞で読んだのは今朝だったのだが、同じ日に佛教大学から雑誌が届いた。ここに、実は「檸檬」論を書いていたのであります。実際に書いていたのはかなり前だったので、まさかこんなことになるとは思いもよらず、論文の最後で「八百卯は、まだある。」とか書いてしまっているんだよなぁ。雑誌の発行月日が昨年12月25日だから、間違いではないのだけど、なんというか、残念。興味のある方はこちらからどうぞ。

  *   *
 なお、閉店のニュースソースは、以下。ついでに、下に「檸檬」の当該部分を引用し、記念としておこう。

中京、「檸檬」の果物店閉まる 梶井基次郎の小説 4代目急逝で

2009年1月27日(火)

 梶井基次郎(1901−32年)の小説「檸檬(れもん)」の舞台として知られる京都市中京区寺町通二条角の果物店八百卯(やおう)が26日までに、店を閉めた。もう一つの舞台だった書店はすでになく、多くの文学ファンに親しまれた京都の「名所」がまた一つ姿を消した。

 八百卯は1879(明治12)年の創業。梶井基次郎が1925年に発表した「檸檬」で、主人公が三条通にあった丸善・旧京都店の書棚に、爆弾に見立て置き去ったレモンを買い求めた店として知られる。後に同区河原町通蛸薬師上ルに移転した丸善(京都河原町店)は、2005年に閉店している。

 八百卯関係者によると昨年10月、4代目の店主村井義弘さんが63歳で急逝し、創業130年の歴史に幕を下ろすことになったという。

 シャッターが下ろされた店先では、道行く人たちが閉店を知らせる小さな張り紙に驚いたように足を止め、名残を惜しんだ。店を手伝ってきた親族は「檸檬の店と、長い間、大事にして頂いてありがたかった。本当に残念です」と話した。

 「そこは決して立派な店ではなかったのだが、果物屋固有の美しさが最も露骨に感ぜられた。」(梶井基次郎「檸檬」より)

http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2009012700037&genre=K1&area=K00

梶井基次郎「檸檬」

〔…〕其處の果物屋で足を留めた。此處でちよつとその果物屋を紹介したいのだが、その果物屋は私の知つてゐた範圍で最も好きな店であつた。其處は決して立派な店ではなかつたのだが、果物屋固有の美しさが最も露骨に感ぜられた。果物はかなり勾配の急な臺の上に竝べてあつて、その臺といふのも古びた黒い漆塗りの板だつたやうに思へる。何か華やかな美しい音樂の快速調(アツレグロ)の流れが、見る人を石に化したといふゴルゴンの鬼面――的なものを差しつけられて、あんな色彩やあんなヴオリウムに凝り固まつたといふ風に果物は竝んでゐる。青物もやはり奧へゆけばゆく程堆高く積まれてゐる。――實際あそこの人參葉の美しさなどは素晴しかつた。それから水に漬けてある豆だとか慈姑だとか。
 また其處の家の美しいのは夜だつた。寺町通は一體に賑かな通りで――と云つて感じは東京や大阪よりはずっと澄んでゐるが――飾窓の光がおびただしく街路へ流れ出てゐる。それがどうした譯かその店頭の周圍だけが妙に暗いのだ。もともと片方は暗い二條通に接してゐる街角になつてゐるので、暗いのは當然であつたが、その隣家が寺街通にある家にも拘らず暗かつたのが瞭然しない。然しその家が暗くなかつたら、あんなにも私を誘惑するには至らなかったと思ふ。もう一つはその家の打ち出した廂なのだが、その廂が眼深に冠つた帽子の廂のやうに――これは形容といふよりも、「おや、あそこの店は帽子の廂をやけに下げてゐるぞ」と思はせる程なので、廂の上はこれも眞暗なのだ。さう周圍が眞暗なため、店頭に點けられた幾つもの電燈が驟雨のやうに浴せかける絢爛は、周圍の何者にも奪はれることなく、肆にも美しい眺めが照し出されてゐるのだ。裸の電燈が細長い螺旋棒をきりきり眼の中へ刺し込んで來る徃來に立つて、また近所にある鎰屋の二階の硝子窓をすかして眺めたこの果物屋の眺め程、その時どきの私を興がらせたものは寺町の中でも稀だつた。
 その日私は何時になくその店で買物をした。といふのはその店には珍らしい檸檬が出てゐたのだ。檸檬など極くありふれてゐる。がその店といふのも見すぼらしくはないまでもただあたりまへの八百屋に過ぎなかつたので、それまであまり見かけたことはなかつた。一體私はあの檸檬が好きだ。レモンヱロウの繪具をチユーブから搾り出して固めたやうなあの單純な色も、それからあの丈の詰つた紡錘形の恰好も。――結局私はそれを一つだけ買ふことにした。〔…〕