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日比嘉高研究室

近況、研究の紹介、考えたこと

勝手に書評:川口隆行『原爆文学という問題領域』

無駄話

原爆文学という問題領域

原爆文学という問題領域

『原爆文学という問題領域』拝領

川口隆行さんから高著『原爆文学という問題領域(プロブレマティーク)』をいただいた。読了。非常に面白かった。ここのところ読んだ研究書のなかでは一番刺激的であったといいたい。

同書はタイトルどおり原爆(および被爆者)を描いた文学作品・マンガを論じた論文集、というようにひとまず言ってよいだろう。が、こう言ったときに通常想像する作品論がならんだ論文集なのかといえば実はそうではない。


もちろん、原民喜の「夏の花」、井伏鱒二の「黒い雨」、石牟礼道子朝鮮語訛りの長崎弁」、こうの史代夕凪の街 桜の国』、中沢啓治はだしのゲン』、栗原貞子ヒロシマというとき」というように、小説や詩、マンガが論じられてはいる。だが本書の特徴はそれと同時に、というよりもそれ以上の力点を置いて、長岡弘芳『原爆文学史』、大江健三郎ヒロシマ・ノート』、丸木位里・俊「原爆の図」を論じる小沢節子の研究書『「原爆の図」――描かれた〈記憶〉、語られた〈絵画〉』、元長崎市長本島等の「広島よ、おごるなかれ」、小林よしのり『戦争論』、広島の原爆死没者慰霊碑広島平和都市記念碑)「過ちは/繰り返しませぬから」などが論じられていくところにある。

著者のこの姿勢は、「虚構/記録、文学/政治、体験者/非体験者といった二項対立の遂行的構築こそが、原爆文学というジャンルを領域化した」(p.23)という言葉に端的に表れているといっていい。つまり、川口さんが論じたいのは、〈作品〉という独立し自律した芸術品ではなく、そのテクストが生み出され、批評され、位置づけられ、批判されていく葛藤の場そのものであり、かつその葛藤の中に彼自身が参入することを目指しているのだと思う。そしてその姿勢は、全編貫かれ、一貫して本書の緊張感を形作ることに成功している。

「緊張感」

いま、「緊張感」といった。実はこれは、本書中のキーワードである。吉田幸治「『はだしのゲン』を読み解く視点」(『はだしのゲン』がいた風景』所収)が使っていた言葉であり、川口さんはこれを大切に引き受ける。原爆を語るということは、緊張を要求する。それは書き手の側・作品の側にも強く漂うものであり、そしてそれを受け取ろうとする読み手の側にも等しく要請されるものだ。

作品の描き出す原爆と被爆者の姿の「正しさ」(とあえて言っておこう)をギリギリと問いつめ、よりベターな表現、よりベターな評価を求めて、参照しては打ち倒し、参照しては批判しを繰り返す川口さんの文章は、まさに緊張感あふれるものであり、そしてそれは読む読者を本の前に縛り付け、同じ緊張を要求してくる。

私は「原爆文学」については通り一遍のことしか知らない。だから『原爆文学という問題領域』が、この研究領域のなかでどのような新しい発見をもたらし、またいかなる評価をもって迎えられるのかは知らない。だから、私の判断は当該分野の専門家としてのそれではなく、隣接分野の専門家としてのそれにならざるをえない。その上で、ということになるが、この本は広く読まれるべき価値を持つと思う。

本書は、作品を論じ、批評の場に介入することのもたらす、わき上がるような高揚感と身を賭ける際どさとを備えており、読者はそれを受け取り、また自分自身のものとして問い直すことを要請される。その訴求力が、この本の一番の価値だと思う。

ここしばらく、学界はジェンダー批評やらカルチュラル・スタディーズやらポスト・コロニアル批評やらの洗礼を受けて、さまざまな場面において広がる差別構造、権力構造の分析を行うようになってきた。またそれにともない、論者の倫理的な立ち位置が常に問われるようになってきた。私自身、日系移民の文学などというものを考えるようになっており、そうした流れの影響を受けている。

ところで以上のような新しい潮流によって発見された問題群は、本来非常にクリティカル(批評的/危機的)であらねばならないはずだが、実はぶっちゃけていえばあまりクリティカルでなかったりすることもしばしばである。そこに問題が存在しない、というのではない。「問題が遠い」もしくは「問題がもう終わっちゃっている」場合が、実はけっこうあったりするのである。たとえば、明治時代のジェンダー規制の不均衡さの分析を行い、論文を書く。もちろん男尊女卑が見事に貫かれていて論者は怒りをこめて批判の炎を上げる。たしかにそれは正しい。価値もある(なんらかの新しい知見をもたらしているとすれば、だが)。だが、舞台が明治時代だとすると、どうやっても自分は安全圏のなかにいることになる。相手が天皇(制)だろうが右翼だろうが陸軍大将だろうが好きなだけ吠えられるのである。移民の文学もそうである。いかに日系移民が大戦中に不当な扱いをうけたか(強制収容された)ということを、批判弾劾しても、日本にいて日本語で発表したり書いているかぎり、矢が飛んでくる可能性は限りなく低い。

遠い話題、過ぎた話題に価値がないと言いたいのではない。研究は、あらゆるものを対象にしていい。遠かろうが過ぎていようが、差別は差別であり、問題は問題である。だが、ある種の倫理批評をするならば、「緊張感」をもたらす状況の中に身を置いて、自分自身の研究者生命をかけて発言することの“強さ”は、ある程度そのまま研究の強度に直結する。川口さんの著書はその強度を持っている。本書を読めばわかるが、ああそこまで言うか、という批判を彼は恐れずに(恐れているのかもしれないがそれでも)言ってのける。古い言葉だが、覚悟が、違うのだ。(蛇足になるだろうが、本の奥付上の紹介によれば川口さんは福岡出身。ご自身が直接的に原爆の被害と関わりはないともいう。そうした出自、立場の者が、このテーマにこうして首どころか全身突っ込んでいるのである。しかも彼はこの春から広島大へ行った。エールを送りたい)

すでに相当長くなったが、実は言いたいことのまだ半分だったりする(笑)

分断ということ

さて中身の話。といっても、原爆文学には詳しくないので、論じ方の話になるけれども。

ねばり強くいくつもの表現や評言をとりあげて吟味していく姿勢は、間違いなく同書の美点である。だが、その論の展開の仕方をたどりながら次第に気になってきたのは、常に抑圧されかき消されようとする声を、あくまでも消さないよう忘れないようにしようとする、その川口さんの姿勢である。

たとえば、彼はこうの史代夕凪の街 桜の国』の表現には、朝鮮人被爆者の表象が欠落していると批判する。では朝鮮人被爆者が描かれれば大丈夫なのかと言えば、それも違う。山田かんの詩を論じる過程で、川口さんは朝鮮人内部の階級の問題や複数性にも目を向けなければならないのだ、と主張する。

まとめあげること、物語化すること、代弁すること、これらはその画一化とそれにともなう抑圧のために、繰り返し批判され、そののっぺりした平面にいくつもの分割線が入れられていく。

その目指すところはよくわかる。批判のポイントも、むろん。

だが最近私が思い悩むのは、こうした論述の方向性は、はたして「戦略上」有効なのだろうか、ということである。想起するのはフェミニズム批評のことだ。乱暴に概括するが、フェミニズム批評は、まず男による男中心の文学の批判をして抑圧される女を発見し、助け出した。それから今度は女による女の文学という領域を立ち上げ、その価値を説いた。だがそのあと、じゃ「女」って何だ、誰だ、という問い直しが起こって、あんたらが「女」っていっていたのは要するに多数派(たとえば白人中産階級とか)の女のことでしょ、「女」には黒人もいればアジア系もいれば貧しいのもいれば被差別集団もいるのよ、ってことになって、だんだん細分化していった。よく言えば、緻密化。悪く言えば分断。「女は」という大括りの主語が使えなくなって、「女は」の前に「これこれこういう出自でこういう立場のこういう女は」というように、いくつも積み上がる留保をつけて言わなければいけなくなった。

その結果どうなったか。研究はたしかに進んだ。さまざまな立場の複雑な葛藤が見えるようになった。議論も緻密になった。今まで不可視化されていた人々の姿が見えるようになった。

だが、弊害も生んだ。弊害は二つあると思う。一つは連帯がしにくくなったこと。批評の言葉は共通点を探すよりも、差異を見つける方に力を注いだためである。もう一つは、議論が難しくなりすぎたことである。思わず笑ってしまうが、笑えない話である。

一般に、人気を博し、広く支持される言葉は、なるほどそうだよねという発見とよくぞいってくれたという代弁とを兼ね備えた言葉であり、かつ単純な図式をそなえた言葉である。小林よしのりの『戦争論』しかり、作る会の歴史教科書しかり。暴力的にまで単純化された対比構造で、歴史や事象を明快に裁断して断言する。だからこそそのメッセージは、よく伝わり、よく記憶される。また大雑把で単純だから、読み手の側の差異が問われなくてすむ。

アカデミックなレベルで議論を閉じているならば、この手の粗雑な主張は無視していればよろしい。相手にするほうが見識を問われるというものである。だが、こと倫理的な批評に関わると、そうも言っていられない。葛藤の場に「介入」せねばそれはもう倫理批評ではないからである。

以前、何の回か忘れたがBSのアニメ夜話を見ていたら、宮台真司が出ていた。あるシーンが流れたあと彼はその分析を開陳しはじめたのだが、そしてそれはたしかに理屈っぽくはあったがそれほど難解ではなかったのだが、にもかかわらず彼は隣にいた国生さゆりに「先生の言うこと難しくてわかんなーい」と介入され、立ち往生した。

いや、あまりいい例ではなかったが、なにも国生さゆりを説得する必要はないにせよ、できれば大学学部生ぐらいのリテラシーの読者を議論に巻き込むためにはどうしたらいいか、ということを考えたいのである。

川口さんの議論は面白い。私は広く読まれるべきだと思う。だがだからこそ思う。この論法・戦略は、アカデミックなトレーニングを積んだ者かあるいは強い動機付けを持った者以外に、どれだけの読者がついてこられるだろうか。またこうした細分化の戦略は、「問題の発見」の〈次〉に向かおうとするときに、果たしてうまく機能するだろうか。

言葉は、「誰がどのような文脈において誰に語るのかによって、全く違った政治的社会的効果を生み出す」(p.144)。これは再帰的に、研究者の言葉にも適用できる。だから気をつけなければならない、というのもある。だが、その場の文脈と呼びかける対象を考慮しつつ我々は言葉を選ぶべきだ、ということを、積極的な意味において受け取る可能性もまた考えてみたいのである。