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日比嘉高研究室

近況、研究の紹介、考えたこと

出版ラッシュ

無駄話

 最近、知人の出版ラッシュである。このページを読みに来る人にこんな説明をしても釈迦に説法だが、課程博士号を出せ(取れ)、というプレッシャーが10年ちょっと前から大学院にかかってきたらしい。それまで、近代文学の研究者の多くは、なんとなく自分のテーマというのをいくつか持っていて、それに関連する論文を書き継いではもちろんいたのだが、「10本前後でひとまとまり」という比較的短期の研究計画では、たぶんやってこなかった。が、課程博士の取得というシステムは、それをその内部にいる人々に強要した。5年か6年か、もうちょっとか、とにかくそれぐらいをかけて、序章から結論まで、ある程度の規模で完結した研究を提示しなければならない。ここ2,3年でどわーっと出た本のほとんどは、そうした制度の「賜物」である。

 批判的に読めるかもしれないが、いや私自身その制度の中で身をもって呻吟した一人なのでちょっと文句も言いたいのだが、でも、個人的にはこれは歓迎したい傾向だと思っている。本を出さない、一本一本の論文の質で勝負、という考え方の正当性はむろんある。そういうタイプの素晴らしい研究者は、それこそ何人も知っている。が、それでもやはり一つのテーマを本1冊か2冊ぐらいの規模で描ききる、というスタイルの利点と魅力は、それに劣らずあるように思う。(だから、いわゆる単著でも「論文集」はひとまずおく。それもむろんありがたいし必要なのだけど)

 本を書くということは、比喩的に言えば長篇小説を書くことであると思う。短篇小説とは、必要とされる構想の規模も違うし、読者たちがその「世界」へ没入する深度も違う。読了後、世界が変わって見えるようなそうしたインパクトは、たぶん「本」の規模でないと無理である。短篇小説にはもちろんその魅力があり、長篇よりも短篇の方が楽だとか、そういうことはまったく思わない。質が、違うのだと思う。そしてこれまでの近代文学研究の世界には、そうした長篇の蓄積が少なすぎた、と私は思う。まさか、日本の近代作家が長篇小説が苦手だったのにならったわけでもないと思うけど。

 まあともあれ、自分としてはなんとかかんとか、数年に一冊でも「本」を出していく研究者でありたいと思っているのである。で、まあリタイアするまでになんとか、この本は良い本だ、と多くの人に思ってもらえるものが一冊でも書いてみたい。というわけで、以下のみなさんの御本には、大変刺激を受けました。お送り下さった方々、どうもありがとうございました。(あ、以下には課程博士云々とは関係ない本もありますので)


接続する中也

接続する中也

運動体・安部公房

運動体・安部公房

食通小説の記号学

食通小説の記号学

三島由紀夫と歌舞伎

三島由紀夫と歌舞伎

横光利一と小説の論理

横光利一と小説の論理

「三島由紀夫」の誕生

「三島由紀夫」の誕生

自然主義のレトリック

自然主義のレトリック

(以下2008.3.28増補)

『明治から昭和における『源氏物語』の受容――近代日本の文化創造と古典』
川勝麻里
和泉書院
2008.3
ISBN:9784757604490
税込価格:10,500円


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それから、最近の知人の本としてはこんなのも。

文学の誕生―藤村から漱石へ (講談社選書メチエ)

文学の誕生―藤村から漱石へ (講談社選書メチエ)

女が女を演じる―文学・欲望・消費

女が女を演じる―文学・欲望・消費