日比嘉高研究室

近況、研究の紹介、考えたこと

データ・マイニングの地平 〈書評〉荒木正純著『芥川龍之介と腸詰め』

図書新聞
2862号、2008年3月15日
4面


書評を書かせていただきました。出たばかりなので、さわりだけ紹介。

〔…〕
 〈鼻〉をめぐる著者の「地図」は、だが、にもかかわらず面白いのだ。それは「地図」の作成法そのものに、秘密の一端があるのではないか。因果や順序、従属関係などによって資料同士が結ばれて形成されるのが通常の「地図」であるとするならば、本書の描く「地図」は、連想と並置の「地図」である。それは「なぜならば」、ではなく「その横に」で無限に連鎖していく。それは目と手で歩いて作成する「地図」とも、総索引の「地図」とも異なる。それは何か。私は、それは〈データ・マイニング〉がもたらす新しい「地図」であると考える。国会図書館近代デジタルライブラリー、読売新聞の記事データベース、そしてWWW上のデータ群を、著者は連想と並置の飛躍に導かれて片端から検索していく。コンピュータが示す検索結果はそれ自体としては非論理的である。人の目と思考がたどった道筋でもなく、総索引のもたらす秩序でもなく、ある文字列との同一性、近似性の有無だけで抽出されたデータ(言説)が、検索に対する答えとして一覧化される。著者は、自身の手法をS・グリーンブラット流の新歴史主義の実践だというが(著者は『驚異と占有』の訳者でもある)、私はむしろそれをデータベース時代の研究の、新しい地平の入口として捉えたい。

 はなれ技ともいうべき著者の読解の手腕は、ランダムな検索結果を出会わせ、突き合わせて読みこんでいくところに遺憾なく発揮されており、読者はその導きのままに、知っていると思いこんでいた土地が、思いもよらない「地図」によって描画されていく驚異を味わえばいい。だが我々は一方で、その行く手にある次の課題を見通しておくべきかもしれない。〈データ・マイニング〉とは、膨大なデータの集積から有用な「鉱脈」を掘り出す技術のことだ。検索ボックスに言葉を打ち込むだけでは、その真の地平は開けない。各データベースは固有の設計指針をもつ。何が、どの範囲で、どのように収録され、どのような形式でデータ化され、何がインデックスとされているのか。検索式はどう書けば、何を返すのか。何と何を掛け合わせれば、何が導けるのか。そうしたデータベースのリテラシーが、おそらくは次の「地図」を描くためには要請されるだろう。金鉱を掘り当てるか、山師になるか。文学・文化研究が〈データ・マイニング〉のもたらす新たな地平に到達するのは、我々がそのよりよきリテラシーを獲得したときである。

芥川龍之介と腸詰め(ソーセージ)―「鼻」をめぐる明治・大正期のモノと性の文化誌

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