日比嘉高研究室

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〈書評〉真銅正宏著『小説の方法――ポストモダン文学講義』

  

『日本文学』No.653, 2007年11月, pp.96-97


 「萌(も)え」か「萌(きざ)し」か、それが問題だ。

 私は思った。むろん、些末なことだ。が、著者自身ジュネットの『スイユ』を引きながらいうように、読者はパラテクストを参照しながら「読みの制度にどっぷりとつかる」(75頁)。であるならば、私が表紙に書き付けられた「萌書房」の三文字の前で立ち止まり、そこに本書の内容とのそこはかとない連関を読み取ろうとしたからといって、誰に責められるわけでもあるまい。

 「萌え」で読むならば、これは理論への偏愛の告白となる。あるいは「萌し」で読むならば、これは新しい視点へ到達するための軌跡となろう。


 本書における著者の問いは根源的である。「小説」とは何か。それを「読む」とはどういうことか。「書く」とは。そしてそもそも「文学」とは。こうした大きな問いに、「テクストとは何か」「読書行為とは何か」「文学性とは何か」「ジャンルについて」「語りと文体について」「虚構について」など総計24章にわたる記述が、バルトやジュネット、イーザー、ヤウス、デリダなどを参照しながら積み上げられていく。詳細はぜひ手に取ってみていただくとして、小説とは、文学とは、という根源的な問いに対する著者の答えは、日常的な思考や言語に対する「異化作用」にあるとまとめてよいだろう。基本的には私も納得する。たとえば、現に、いまここで進行している書評は小説なのである。ええ、そうなのである。だから私は語り手である。日比ではなく。

 こう言った瞬間に、この文章に対するメタレベルの関心が読者のなかに喚起され、へ?という問いに導かれるまま、読者は書評って何?小説って?という根源的な問いに逢着し、素朴な書評読者ではもはやいられず、この私の語りそのものや私の積み上げる言葉の設計に目がいってしまうのである(たぶん)。著者の考える、小説の言葉の機能とは、こうした「自動化からの脱却」(182頁)である。

 さて、『小説の方法』は「萌え」なのであろうか。どうもそうではない。批評理論の入門書としては平易で読みやすいが、批評理論そのものへの招待を行っているわけではなさそうだ。(もしその意図もあったならば、「主要参考文献」ではなく、読者に向けた「案内」が付されるべきだった。) しかも、理論的には少々ゆるい。一事をもって万事を言ってはいけないが、たとえば著者は30頁において、作品/テクスト、セックス/ジェンダー、無意識/意識、下部構造/上部構造の四つを前者から後者が「派生」した「二重構造」として一括して説明する。これはあまりに乱暴だろう。

 では、「萌し」だろうか。新しい批評理論の萌し。これもそうではない。著者による批評理論のまとめには、率直に言って、多くの部分において既視感がある。先に紹介した人名や巻末の参考文献の一覧を見てもそれは了解されようし、そもそも「ポストモダン文学講義」をいま名乗る以上、著者自身もこれは承知の上だろう。

 いま、多くの部分において、といった。小説とは何かを問い、また批評理論の入門的記述を提供する書籍は多い。では、その種の類書から本書を分けるのはどういったところだろうか。

 一番の特色は、「小説を書く楽しみ」というパートが半分を占めていることである。といっても、その記述はいわゆる〈小説の書き方〉本ではなく、文体や時間、人物造形、題名、虚構などについての批評理論的な省察がされているのであり、この書評小説の作者のように「これで小説が書ける!」と勘違いをしてはいけない。小説の言葉のもつ「異化」の効果を、たんに享受するだけではなく、それを書くことによって獲得しようという志向を本書はもっているのである。これは大きな特徴といっていいだろう。

 この他、個人的には、書物の物質性、現在進行形へのこだわり、セキュリティの問題との接続が面白かった。ジュネット『スイユ』に導かれつつ、著者はテクストと印刷物の間に書物という項を構想し、それを市川浩三浦雅士の身体論と接続して、「現象としての存在」(80頁)である書物を論じる。それは、本文ではないがそれと切り離すこともできず、小説本体ではないがそれなしに作品は成り立たない、まさに危険な代補としてのパラテクストの集積である(スイユseuilはフランス語で敷居の意だ)。

 また、著者には同時進行や現在進行形というあり方に対する特別な関心があるようだ(3頁、107頁など)。この関心から「構想と構造について」の章では、「全体性」と「変換」と「自己制御」から構成されるピアジェの「構造」概念について考察がなされ、その動的な特質が強調される。たとえばこれは、進行形を行為性の問題とつなげば、パフォーマティヴ論も視野に入ってくるだろう。そこから構造(化)の問題とどう接続させるか。作者、読者、登場人物概念の組み替えは可能か、などなど関心がふくらむ。(なお、ピアジェのいう「全体性」を小説の全体性=設計図=完成図(151頁)へと敷衍してよいかについては疑問が残る。)

 最後にセキュリティ。セキュリティと自由の問題は、ネットワーク上における情報のあり方と扱われ方の問題を介して、広くディスクールエクリチュールを取り扱おうとする「文学研究」が今後直接的間接的に向き合っていかねばならない問題であろう(と勝手に予測する)。著者は小説の機能の一つとして、「想像力による世界の事前把握」をあげる(188頁)。小説がもつシミュレーション能力を評価したものといってよく、一つの論点であろう。ただし、この問題の裾野はもっと幅広いように思われる。たとえば、電子決済は購入履歴の蓄積と分析に非常に親和的であり、このことはネット書店のアマゾンを利用したことのある人は直感的に分かると思うが、こうして購買行動(ここでは≒読書)が「管理」されていくことは、社会のさまざまな領域でセキュリティの向上という名目において監視・管理が強化されていっていることと、状況論的にみても、またアーキテクチャレッシグ『CODE』)のレベルで考えても、重なりあう出来事であるはずだ。

 そろそろ、答えを出すときが来たようだ。「萌(も)え」か「萌(きざ)し」か。答えは、実はそのどちらでもない。「萌(きざす)」。萌すのは、読者のなかに、と読み取ろう。新しい小説研究の方途が、この本とその読者たちの地平から萌すことを願って。             (畢)

(二〇〇七年四月三〇日 萌書房刊 二〇四頁 二四〇〇円)


小説の方法―ポストモダン文学講義

小説の方法―ポストモダン文学講義