日比嘉高研究室

近況、研究の紹介、考えたこと

台湾・新高堂書店 村﨑長昶―事跡と回想録 全1巻

金沢文圃閣から、以下の編著を刊行しました。

台湾・新高堂書店村﨑長昶──事跡と回想録(文圃文献類従75)
村﨑長昶 著
日比嘉高 編・解題
金沢文圃閣、2020.1、246頁
年譜あり
ISBN 9784909680624
価格 16800円

村﨑長昶は、戦前の台北市にあった最大の日本人経営書店「新高堂書店」の創業者です。新高堂書店は、日本統治下の台湾における日本語出版文化のハブでした。今回刊行した書籍は、手に入りづらかった村﨑の『 八十年の回顧録 記憶をたどって』の復刻本です。ただし、単なる復刻ではなく、村﨑自身による「台湾の読書界」ほか8編の記事が加わったほか、わたくし日比の解題と「新高堂書店 出版図書、雑誌、地図 総覧(稿)」が付きます。

また、金沢文圃閣『文献継承』に連載している「外地書店を追いかける」の新高堂関係文全10回を再録しています。戦前の台北の書物文化小史になっていると思います。

honto.jp

f:id:hibi2007:20200302142955j:plain
台湾・新高堂書店村﨑長昶 : 事跡と回想録

紹介・書きました)専門家を軽視し、不安を利用する日本の政治…新型コロナが示したこと

現代ビジネスに、以下の記事を書いています。

「専門家を軽視し、不安を利用する日本の政治…新型コロナが示したこと」
gendai.ismedia.jp

菊と少女:あいちトリエンナーレ2019 振り返りPart 3 終

10月13日

キュレーターの方が雑談の中で言っていたことが気になっている。〈菊タブー〉は大きいですよ、慰安婦の問題と天皇の問題は一緒くたにできないと、再開された「表現の不自由展・その後」の抽選券を求めて並ぶ人々の列を見ながら、その人は言った。

そういえば、と私は思う。「表現の不自由展・その後」の問題を報じるテレビニュースでは「いわゆる慰安婦像など」というようにキム・ソギョン/キム・ウンソンの《平和の少女像》を焦点化した物言いが多かったように思うし、新聞報道でも天皇の表象の問題は避けられがちだと思う。つい最近出たばかりの『あいちトリエンナーレ「展示中止」事件 表現の不自由と日本』(岡本有佳・アライ=ヒロユキ編、岩波書店2019)に収められた論も、少女像にフォーカスする論考が多い。

愛知芸術文化センターの大きな吹き抜けをぐるりと囲んだ通路に、たくさんの人々(私もそうした一人だった)が並んでいる。彼らは何を目撃したいのだろう。菊と少女、なのだろうか。他の作品だろうか。あるいは企画そのものも含めた、その炎上のようすか。

「表現の不自由展・その後」の展示中止を語る言葉たちの中で、天皇表象の問題と慰安婦像の問題とは、多くの場合並んでおかれていた。中止を迫る脅迫行為や、愛国主義的な批判、政府と地方自治体による助成金不交付の脅しなどといった外在的な圧力が次々に加えられ、再開か不再開かという対立になっていて、しかも当初実際の展示を見ていた人はごくわずか(3日間の展示と内覧会のみ)であったのだから、当然といえば当然である。むろんこの二つを並べ、結び付けて論じる必要性もある。なぜなら、慰安婦とされた諸地域の女性達の悲劇は、日本軍をはじめとした戦前の大日本帝国の国家体制、社会制度のありかたと不可分だからである。

ただ、二つを並べたために、見えにくくなっていることもある。(論点を限定するが、慰安婦像の問題を小さく見積もるつもりはない)。それが天皇をめぐる現在の「情」と「例外」の問題である。

大浦信行の映像作品《遠近を抱えて part II》は明らかに昭和天皇の戦争責任をモチーフの一つにしていた。だが、大浦の天皇表象を天皇の戦争責任の問題として扱う見方は広がらなかった。議論はむしろ、燃やされたのが「昭和」天皇であることよりも、単に「天皇」であることに集中した。そして昭和天皇から「昭和」が脱落するとき、人びとのいう「天皇」は平成以後の ── つまり戦没者の慰霊や被災地の訪問を熱心に行い、平和への願いを繰り返し述べつづけた平成天皇のイメージをもとに作り上げられることになる。

天皇をめぐる私たちの感性は、昭和から平成令和へと変化を続けている。そして今、戦争の時代を率いた昭和天皇と、冷戦以後を生きた平成・令和の天皇とを、多くの人々は日常的な感覚において区別しなくなっているように見える。平成天皇および皇室への好意の高まりは、畏れではなく敬いとしての、好意に固められた菊タブーを昂進させている。そしてそのことは、統治する天皇とともにあった昭和の黒い歴史への、明るい忘却と対になっている。人々は国旗を振り、終わりなく万歳を叫び続け、提灯行列をし、代替わりの日に夜通し盆踊りを踊り続ける。

実際に見た《遠近を抱えて part II》は、攻撃的だと私には感じられた。おそらく美術展の運営側もそれを認識していた。作品を上映する際のガードは固かった。一箇所に集められ、短いレクチャーがあり、作品の撮影禁止を確認された。作中、若い昭和天皇の肖像は、つごう4回ガスバーナーで燃やされた。その炎は、怒りである。昭和の感性を忘れない者にとって、アジア太平洋戦争における数百万の戦死者・戦没者や、日本が近隣諸地域に引き起こした持続的な惨禍と比べれば、アート作品の画面上で4回だろうが何回だろうが燃やされることなど、比較自体がナンセンスだ。

だがそれは平成以後の感性にとって同じではない。燃やされる昭和天皇から「昭和」は剥がれ落ちる。平成以後の〈明るい菊タブー〉が行う検閲の眼には、単に「天皇への攻撃」しか映らない。ふと目をやると、Twitterのタイムライン上の動画で、昭和23年生まれであり、たしか歴史好きを自認するはずの名古屋市長が、「陛下への侮辱を許すのか!」というプラカードを手に、日の丸に囲まれながら座り込みのパフォーマンスをしていた。

昭和天皇は神から人になった。一部の人びとは、その道を天皇が引き返していくことを望んでいるのだろうか。そんなことあるわけがない、ときっと否定されるだろう。だが神である必要はないのだ。天皇は「例外」でさえあればいい。だれにとって「いい」のか。統治者にとって、である。

いま、私たちの政治では「例外」が増えている。それは「閣議決定」という鵺のような意思決定であったり、公文書の扱いであったり、高級官僚の人事的配置であったりする。あいちトリエンナーレ2019では、ここにいったん内定が決まっていた助成金の不交付という新しい例外的判断が加わった。

天皇の「例外」と政治の「例外」は、やがて結びつくのだろうか。そうならないことを願わずにはいられない。だが、あいちトリエンナーレは、もしかしたら二つの「例外」が、情の発火をきっかけとして結び合ってしまった一つの先例となっているのかもしれない。

天皇をめぐる情の時代は、また動き出している。「例外」としての天皇に向かう情動は、その先に、どこへ流れ出していくのだろう。

タニア・ブルゲラ《10,148,451》:あいちトリエンナーレ2019 振り返りPart 2

8月5日

手に押されたのは、2019年の難民の数――生き残った人々と亡くなった人々の。f:id:hibi2007:20190804160804j:plain:right:w250

スタンプの数字はタニア・ブルゲラ Tania Brugera の作品《10,148,451》の仕掛けの一部である。作品の鍵は「強制的な共感」。ブルゲラの作品を見る前、会場の別の作品を見て回りながら、科学的な刺激臭が漂っていることに気づいていた。妙だなと思っていたいぶかしさの出元は、彼女の作品だった。

展示室に入る前に、手にスタンプを押される。説明を見る。これは難民の死者と生者の数である。展示は「地球規模の問題に関する数字を見せられても感情を揺さぶられない人々を、無理やり泣かせるために設計され」ている。部屋の中に踏み込む。何もない白い空間の中に、強いメンソール系の刺激臭が充満する。

強制的な共感などというと仰々しいが、しかし、考えてみたら、我々の共感はどれだけ自発的なのだろう。

他者の涙に、つい心を動かされたことはだれしもあるはずである。その時の共感は「心」から来てるのか、「身体」の共振から来てるのか、あるいは「脳」の機能から来ているのか。集団生活をする動物として、われわれ人間には、グループの仲間と繋がるためのさまざまな身体的機能を備えている。心はたしかに他者と自分をつないでいるが、その心は身体に根ざしていて、心と身体の境目は、あるようでない。心は拡張された身体の一部であり、そして身体は拡張された心の一部であり、さらにいえば自己は拡張された他者の一部であり、他者は拡張された自己の一部である。

共感って、一体なんだ?

あいちトリエンナーレの監督である津田大介は、〈情の時代〉についてこう書いている。

われわれは、情によって情を飼いならす(tameする)技(ars)を身につけなければならない。それこそが本来の「アート」ではなかったか。アートはこの世界に存在するありとあらゆるものを取り上げることができる。数が大きいものが勝つ合理的意思決定の世界からわれわれを解放し、グレーでモザイク様の社会を、シロとクロに単純化する思考を嫌う。

https://aichitriennale.jp/news/2017/002033.html

「シロとクロに単純化する思考」に抗うものとしての「アート」という考え方に、私は賛同する。

そしてアートの面白さは、情をもって情に対抗しようとする展覧会の総コンセプトを土台から問い直すような作品が現れてしまうことだろう。「情」なんてあるのか?とブルゲラは問う。あるいは、「情」なんて「身体の反応」にすぎないのじゃないのか、と。そして「身体の反応」に過ぎないのなら、難民の苦境にぐらい涙を流して見せたらどうだ、と。

共感など安っぽいのか。底が浅いのか。あるいは──、根深いのか。

なお、ブルゲラの作品の示した難民の数は、展覧会の会期中も更新されていた。

毒山凡太朗《君之代》:あいちトリエンナーレ2019 振り返りPart 1

「あいちトリエンナーレ2020」についての小文を頼まれておりまして。以下は、その準備運動、もしくはロングバージョンです。


10月9日

 あまり期待はしていない、いやもっといえば警戒心の方が先に立っている。駐車場に車を止めて、円頓寺の商店街を歩く。台湾の日本語世代のおじいさんおばあさんに、君が代を歌わせている作品だという。事前に知ったその知識だけで、作品について身構えてしまう。日本人の美術家が、日本語を強制された台湾人にカメラを向け、君が代を歌うその姿を録画し、日本の美術展で作品として公開する。どのように理論武装したとしても、その暴力性は言い逃れできない。

 私は植民地文化を対象とした研究者の端くれで、戦前の日本という国、そして日本人が、植民地においてどのようなことをしたのか、一般の人よりも多く知っているつもりである。植民地支配期に生まれた、被支配民族の日本語話者による文学作品に興味を持ち、論じたり授業で扱ったりすることもある。なにより、台湾を含む東アジアから来た留学生たちと毎日のように顔を合わせている。

 どう考えても、まずいことにしかなっていないんじゃないか。《君之代》と題されたその作品について、警戒心ばかりが高まっていく。

 毒山凡太朗の作品は、階段を上がった二階の、マンションの一室のような展示場で上映されていた。扉を開くと、音が飛び込んでくる。歌っている。日本の歌だ。発音は、外国人。照明が落とされた8畳か10畳ぐらいの部屋。その入り口正面に大きなスクリーン。大写しになって、老婆が歌っている。君が代。向こうからカメラを通してこちらを凝視する目。声が裏返る。高音が出ない。それでも歌い続ける。さざあれ、いしいの、いわおとなありて、こおけえの、むううすう、まあああで。歌い終わり、老婆の表情が解けて、笑顔になり、恥じらう。

 完全に飲まれた。これは、そんなんじゃないぞ。

 スクリーンに向かう壁際に、長椅子が置いてある。他数人の観客たちと並ぶように、座り込む。私はそこで24分58秒の作品を3回転分見た。日本人が台湾人に日本語で君が代を歌わせて作品にするという暴力的な構図が、画面に映し出される音や声、身体、表情によって、ぐらぐらと揺らいでいく。歌う身体には歴史があった。それはかつて歌った帝国の歌であると同時に、帝国解体後の70数年を背負った歌だった。天皇の永世を願う歌詞や日本軍を鼓舞する詞章が、70年、80年を激動の島において生き延びてきた一人の人間の声で、表情で、家族や店や仲間のある各々の今の居所で、数十年の忘却のあとに記憶の底から引きずり出され、再演されていた。その画面の24分58秒は、声と、身体と、意味と、記憶と、歴史と、対立と、親密さが、ぎしぎしと音を立てる、居心地悪くも魅入られ、居たたまれないながら立ち去りがたい、再審の時間だった。

 流暢に、あるいは記憶を掘り起こしながら歌われる台湾の老人たちの歌にさらされながら、研究者としての私の「そんなことは知っている」という奢りが、みすぼらしく縮んでいく。植民地文化史の知識が、ビデオアートの揺さぶりの前で、立ち尽くす。「知っている」ということなど、この老人たちの人生の前でいったいなんだというのか。

 ただ、と思う。私がこの作品から受け取ったものの大きさは、たしかに知識の支えなしではありえない。経験や感情が、知識に優越するであるとか、そういうことではないだろう。では、感情と知識はどのように結託するのか。呆然とした一時間半近くの経験の中で、私は〈情の時代〉という、この展覧会のコンセプトの意味を、あらためて考えされられていた。




* 作品のスナップショットは、こちらの毒山凡太朗さんのサイトで見られます。(画像へのリンクが開きます)。
* 毒山凡太朗さんの公式サイトはこちら
* あいちトリエンナーレ2020公式サイトの毒山凡太朗さんの紹介ページは以下。
aichitriennale.jp

2019年の論文・記事まとめ

2019年1月~12月に発表した論文や記事など。こう振り返ると短いのが多い。このあと3月ぐらいまでに、いくつかまた印刷されて出て来る予定です。そいつらは、長いやつ。あと他にもいろいろ書いていた体感があるんですが、それは発表原稿だったようです。

論文

  1. 「(研究展望)文化資源とコンテンツを文学研究的に論じるための覚え書き――文豪・キャラ化・参加型文化」『横光利一研究』17号、2019年3月、pp.63-74
  2. 「高校国語科の曲がり角──新学習指導要領の能力伸長主義、実社会、移民時代の文化ナショナリズム」『現代思想』第47巻7号、2019年5月、pp.114-123
  3. 「外地のランドスケープ : 人と環境の重奏を聴く」『現代詩手帖』第62巻8号、2019年8月、pp.42-47

その他記事など

  1. 「「大学教養」で何を学ぶのか」『名城大学教育年報』13号、2019年3月、pp.1-6
  2. 「1R(ラウンド)1分34秒」作品論 「スピリチュアルくそボクサー」の静かなる冒険」『文學界』第73巻3号、2019年3月、pp.188-191
  3. 「〈物〉と〈知〉をどうつなぐか」『立教大学日本文学』122号、2019年7月、pp.102-105
  4. 「外地書店を追いかける(12)―本屋の引揚げ 村﨑⻑昶の場合」『文献継承』金沢文圃閣、第34号、2019年7月、pp.13-15

発表者募集 2020年 東アジアと同時代日本語文学フォーラム 第8回 バリ大会

発表者の募集を開始しています。

2020年 東アジアと同時代日本語文学フォーラム 第8回
開催地:インドネシア・バリ島 ウダヤナ大学ほか
日程:10月16日(金)、17日(土)
応募〆切:3月15日(日)

詳細は以下のページをご参照下さい。

eacjlforumweb.wixsite.com