日比嘉高研究室

近況、研究の紹介、考えたこと

発表者募集 2020年 東アジアと同時代日本語文学フォーラム 第8回 バリ大会

発表者の募集を開始しています。

2020年 東アジアと同時代日本語文学フォーラム 第8回
開催地:インドネシア・バリ島 ウダヤナ大学ほか
日程:10月16日(金)、17日(土)
応募〆切:3月15日(日)

詳細は以下のページをご参照下さい。

eacjlforumweb.wixsite.com

今年度の研究発表まとめ

今年度は特に後半がデスロードだった(というか、いまも道半ば)ので、その道程を記しておこう。

  1. Japanophone Literatures and Books: materiality, distribution networks and immigrant writers., "Japanese Diaspora to the Americas: Literature, History and Identity," Yale University 2019年5月3日
  2. Japanophone Poems in Motion: how did Ito Hiromi and Tian Yuan write memories and experiences of their migration?, "Transition:ein Paradigma der Weltlyrik im 21. Jahrhundert?" 早稲田大学 2019年10月5日
  3. 「戦時下における小売書店──企業整備と統制組合」東アジアと同時代日本語文学フォーラム 第7回、東呉大学、2019年10月26日(パネル発表。総題「「大東亜」の書物と表象アジア太平洋戦争期における文化政策・戦場・統制」)
  4. 「我々は何を研究してきて、そしてどこへ向かうのか」日本近代文学会、昭和文学会、日本社会文学会三学会合同国際研究集会 ラウンドテーブル、二松學舍大学、2019年11月24日
  5. Rethinking Literary Imaginations of Naichi-Zakkyo(domestic mixed residence), "Crossing the Borders of Modernity: Fictional Characters as Representations of Alternative Concepts of Life in Meiji Literature (1868-1912)," University of Cologne 2020年1月11日
  6. 現代日本文学の想像力──環境・身体・ディストピア」韓国日本学会 シンポジウム、東国大学 2020年2月9日予定
  7. 「時を語る日本語文学──記憶、環境、進化」東アジアにおける世界文学の可能性 シンポジウム、東京大学 2020年2月11日予定
  8. 「(文学国語をめぐって)」日本近代文学会東海支部シンポジウム、中京大学 2020年3月14日予定

論文など書き物については、また別にまとめます。

久々更新ついでの駄弁

  • この前、思わぬ方から「ブログ読んでいます」と言われ、恐縮したのである。最近はもっぱらTwitterに投稿しており、ほかの元ブロガーの方々と同じように、Twitterでこまめにガス抜きすると、ブログを書くエネルギーがなくなるという循環になっております。
  • が、Twitterとブログはかなり機能が違うことは重々承知しているつもりであり、基本、自分は長文書きだと自認しているので、ねたが浮かんだら、ゆるゆるこちらも更新します。
  • 業績関係の報告も、こちらにまとめているし。
  • ちなみにtwitter読んでいます、という挨拶にはもうびびらない。びびらないが、どう返していいのか困るのですがね。初対面の挨拶でよく言われるんですが、「あ、はい、どうも」とか「すいませんすいませんすいません」とか「今すぐフォローをやめてください」とか、そのときの投稿状況によって反応が代わります。
  • そういえばツイッタの方で告知したことをこちらでも告知しておきますよ。

  • 今年は、モデル問題の本を出すよ。だすだすサギのあの本だよ。ついに、だよ。
  • なんかもう、死ぬほど研究報告が続いていて、記事やら論文の締め切りがあって、お声がかかるのはほんとうにありがたいので、基本断らないのだけれど、いい加減断らないと病気になるぞ、ていうか大丈夫なのか、と家では言われ、もちろんまだ死にたくも半病人になりたくもないので、我が身大切に生きたいと思う2020年の年男です。ええ、年男です🐭
  • とまあ、特に用事はないのですが、更新しないと広告が出るはてなブログの仕様に対抗するため、更新した次第です。本年もよろしくお願いいたします。

エリートの嘆き節をどう越えるか──専門家と市民の絆の結び直しを

週刊読書人』第3310号、2019年10月11日

トム・ニコルズ著『専門知は、もういらないのか 無知礼賛と民主主義』の書評です。以下から読むことができます。

dokushojin.com

古市憲寿さんの「百の夜は跳ねて」と木村友祐さんの「天空の絵描きたち」に関して

日経新聞の以下の記事でコメントをしています。古市憲寿さんの「百の夜は跳ねて」と木村友祐さんの「天空の絵描きたち」に関して。芥川賞の選評が話題でした。以下補足します。

>>「小説のオリジナリティーとは 芥川賞選評から考える 」『日本経済新聞』文化往来2019/8/20

www.nikkei.com

「小説のオリジナリティーとは 芥川賞選評から考える」『日経新聞』電子版、文化往来、2019/8/20


古市さんが盗作や剽窃をしたとかアイデアを盗んだとかいう意見もあるようですが、その批判は該当しないと思います。ビルの窓ふきというモチーフ自体にオリジナリティがあるわけではない。たとえば以下の方も指摘しているように、辻内智貴さん「青空のルーレット」(2001)という作品もある。

しかも古市さんは木村さんに「取材」を申込み、木村さんが情報や人を紹介したようで、しかも参考文献に明示しているから手続き的は、いたってホワイトでしょう。問題は別のレベルにある。私が日経新聞のコメントで「対話関係」とかいっている点。

普通、小説でも記事でも論文でも、同じテーマの先行する文献があれば、それを「踏まえて」書く。踏まえ方には色々あるけれど、テーマが近接していればしているほど、正面から向き合わざるを得なくなる。結果、ある種の対話関係が発生する。

近代文学で一つ例を出すと、金閣寺の放火事件(1950年)という実際の出来事があった。これを三島由紀夫が『金閣寺』という著名な長篇小説にしている。1956年発表。その約十年後の1967年に水上勉が同じ事件をもとに『五番町夕霧楼』というやはり長篇を書いている。

水上勉は参考文献として掲げたりはしないが(当時そんな習慣はない)、三島由紀夫の作品を意識していた。超有名な作品なので言うまでもない。というか、三島由紀夫の事件観・犯人観に反論するつもりで、水上は同作を書いた。三島は自分の「美」についての観念を作品に盛ったのに対し、水上は実際の犯人の生い立ちや内面を追った。

私が言う対話関係というのは、たとえばこういうこと。今回の古市さんと木村さんの二作について、両作を読んだ結果、私はこうした関係が発生しておかしくないと思った。つまり二人とも新自由主義的な格差社会の中において、東京を舞台にし、「ビルの窓ふき」という不安定な職業(立場、環境、収入など。象徴してる)の若者の関係性と内面を描いている。

古市さんの「百の夜は跳ねて」は、木村さんの「天空の絵描きたち」が提示したプレカリアスな状況の中で、誇りを持って働く主人公やその仲間たちという「職人」の物語について、なんらかの応答を含んでしかるべきだった。が私には、それが読めなかった。腹を立てた芥川賞の一部の選考委員たちにも、そうだったのではないかと推測する。

「百の夜は跳ねて」にとって「天空の絵描きたち」は、単なる便利に使った情報源の一つでしかなかった、というように見えるということである。

ただし、話をひっくり返すようだが、「情報源の一つ」として先行作品を使うことが、すなわちアウトということではない。

それは奥泉光さんが選評で言っていた、「小説はそもそも、すべてパッチワークだ」(大意)(注)ということに関わる。私はこの意見に同意する。だから、古市さんは「天空の絵描きたち」を単なる「情報の一つ」として使ってもいい。

問題はこの先である。じゃあパッチワークして何をどう書いたか?その質は?という話である。ちょっと辛口になってしまうけれど、私には「百の夜は跳ねて」はパッチワークの、それぞれの布片が、布片のままになりがちで、全体としての図柄が浮かび上がらなかったと思う。

もしも全体としての図柄の描画に成功していたら、おそらく同作は木村さんの小説とは、「モチーフこそ共通するもののまったく別の作品」として評価されていたと思う。

最後蛇足だが、私は古市さんの作品3作は全部読んでいるけれど、最先端的な固有名詞へのこだわりが強いんだよね。田中康夫「なんとなくクリスタル」的な方向を意識しているのかもしれないけれど、物自体が語るほど徹底していないから、どうも連発されるおしゃれ名詞が気になって仕方ない…。


当初「すべからくパッチワークだ」と書いておりましたが、すべからく警察さんのご指摘を受けまして、「すべてパッチワークだ」と訂正いたしました。すべからく=すべての意味で使う人が増えておりますが、やはりまだ誤用というべきでしょう。

外交と天皇が憲法を越えるとき

いま、「外交」と「天皇」を理由に、現役の府知事が現役の県知事の辞職を求める超展開になっている。
www.asahi.com

愛知県知事は、「憲法通りにやります」と言っている。
その県知事に対して、府知事は辞職を求めている。
辞職を求める根拠は「憲法の外」にあることになります。
超法規的な根拠。

これは、表現の自由の問題を発端にしている出来事であるわけですが、表現の自由という重大な問題が軽く吹っ飛ぶぐらいの、やばい事態にしか思えません。

この先、外交が戦争に化けたら、天皇が法規を超越していた大日本帝国の時代が、本当にもう一回やってきてしまう。

戦争は国家を非常事態=例外状態におく。
非常事態に法を越えた力を振るえるのが最高権力者であるわけだけれど、上の府知事的な発想で「天皇」を法を越えた例外的存在に奉っていくと、遠からず「法の外」に天皇が立ってしまう。
いったんそうなったら、そこから出てくる命令=勅令を止める力はどこにもなくなる。
法の外部に、「例外」として君臨してしまうので、もう手も足も出ない。

ある人たちは、それを望んで、呼んでいる。
自覚しているのかどうかは知らないが、事実上、そうしている。
大阪府知事は、その風を読んでいるだけ。
そして、その風に乗りたい政治家は、彼一人ではない。

戦争なんて起こるはずない?
ドンパチやるだけが戦争と思っていたらいけないんじゃないかな。
ミサイル飛んでからが戦争、ではない。
戦争は、政治の、外交の、延長にある。

あ、ミサイルもう飛んでたんだっけ。