日比嘉高研究室

近況、研究の紹介、考えたこと

今年度の研究発表まとめ

今年度は特に後半がデスロードだった(というか、いまも道半ば)ので、その道程を記しておこう。

  1. Japanophone Literatures and Books: materiality, distribution networks and immigrant writers., "Japanese Diaspora to the Americas: Literature, History and Identity," Yale University 2019年5月3日
  2. Japanophone Poems in Motion: how did Ito Hiromi and Tian Yuan write memories and experiences of their migration?, "Transition:ein Paradigma der Weltlyrik im 21. Jahrhundert?" 早稲田大学 2019年10月5日
  3. 「戦時下における小売書店──企業整備と統制組合」東アジアと同時代日本語文学フォーラム 第7回、東呉大学、2019年10月26日(パネル発表。総題「「大東亜」の書物と表象アジア太平洋戦争期における文化政策・戦場・統制」)
  4. 「我々は何を研究してきて、そしてどこへ向かうのか」日本近代文学会、昭和文学会、日本社会文学会三学会合同国際研究集会 ラウンドテーブル、二松學舍大学、2019年11月24日
  5. Rethinking Literary Imaginations of Naichi-Zakkyo(domestic mixed residence), "Crossing the Borders of Modernity: Fictional Characters as Representations of Alternative Concepts of Life in Meiji Literature (1868-1912)," University of Cologne 2020年1月11日
  6. 現代日本文学の想像力──環境・身体・ディストピア」韓国日本学会 シンポジウム、東国大学 2020年2月9日予定
  7. 「時を語る日本語文学──記憶、環境、進化」東アジアにおける世界文学の可能性 シンポジウム、東京大学 2020年2月11日予定
  8. 「(文学国語をめぐって)」日本近代文学会東海支部シンポジウム、中京大学 2020年3月14日予定

論文など書き物については、また別にまとめます。

久々更新ついでの駄弁

  • この前、思わぬ方から「ブログ読んでいます」と言われ、恐縮したのである。最近はもっぱらTwitterに投稿しており、ほかの元ブロガーの方々と同じように、Twitterでこまめにガス抜きすると、ブログを書くエネルギーがなくなるという循環になっております。
  • が、Twitterとブログはかなり機能が違うことは重々承知しているつもりであり、基本、自分は長文書きだと自認しているので、ねたが浮かんだら、ゆるゆるこちらも更新します。
  • 業績関係の報告も、こちらにまとめているし。
  • ちなみにtwitter読んでいます、という挨拶にはもうびびらない。びびらないが、どう返していいのか困るのですがね。初対面の挨拶でよく言われるんですが、「あ、はい、どうも」とか「すいませんすいませんすいません」とか「今すぐフォローをやめてください」とか、そのときの投稿状況によって反応が代わります。
  • そういえばツイッタの方で告知したことをこちらでも告知しておきますよ。

  • 今年は、モデル問題の本を出すよ。だすだすサギのあの本だよ。ついに、だよ。
  • なんかもう、死ぬほど研究報告が続いていて、記事やら論文の締め切りがあって、お声がかかるのはほんとうにありがたいので、基本断らないのだけれど、いい加減断らないと病気になるぞ、ていうか大丈夫なのか、と家では言われ、もちろんまだ死にたくも半病人になりたくもないので、我が身大切に生きたいと思う2020年の年男です。ええ、年男です🐭
  • とまあ、特に用事はないのですが、更新しないと広告が出るはてなブログの仕様に対抗するため、更新した次第です。本年もよろしくお願いいたします。

エリートの嘆き節をどう越えるか──専門家と市民の絆の結び直しを

週刊読書人』第3310号、2019年10月11日

トム・ニコルズ著『専門知は、もういらないのか 無知礼賛と民主主義』の書評です。以下から読むことができます。

dokushojin.com

古市憲寿さんの「百の夜は跳ねて」と木村友祐さんの「天空の絵描きたち」に関して

日経新聞の以下の記事でコメントをしています。古市憲寿さんの「百の夜は跳ねて」と木村友祐さんの「天空の絵描きたち」に関して。芥川賞の選評が話題でした。以下補足します。

>>「小説のオリジナリティーとは 芥川賞選評から考える 」『日本経済新聞』文化往来2019/8/20

www.nikkei.com

「小説のオリジナリティーとは 芥川賞選評から考える」『日経新聞』電子版、文化往来、2019/8/20


古市さんが盗作や剽窃をしたとかアイデアを盗んだとかいう意見もあるようですが、その批判は該当しないと思います。ビルの窓ふきというモチーフ自体にオリジナリティがあるわけではない。たとえば以下の方も指摘しているように、辻内智貴さん「青空のルーレット」(2001)という作品もある。

しかも古市さんは木村さんに「取材」を申込み、木村さんが情報や人を紹介したようで、しかも参考文献に明示しているから手続き的は、いたってホワイトでしょう。問題は別のレベルにある。私が日経新聞のコメントで「対話関係」とかいっている点。

普通、小説でも記事でも論文でも、同じテーマの先行する文献があれば、それを「踏まえて」書く。踏まえ方には色々あるけれど、テーマが近接していればしているほど、正面から向き合わざるを得なくなる。結果、ある種の対話関係が発生する。

近代文学で一つ例を出すと、金閣寺の放火事件(1950年)という実際の出来事があった。これを三島由紀夫が『金閣寺』という著名な長篇小説にしている。1956年発表。その約十年後の1967年に水上勉が同じ事件をもとに『五番町夕霧楼』というやはり長篇を書いている。

水上勉は参考文献として掲げたりはしないが(当時そんな習慣はない)、三島由紀夫の作品を意識していた。超有名な作品なので言うまでもない。というか、三島由紀夫の事件観・犯人観に反論するつもりで、水上は同作を書いた。三島は自分の「美」についての観念を作品に盛ったのに対し、水上は実際の犯人の生い立ちや内面を追った。

私が言う対話関係というのは、たとえばこういうこと。今回の古市さんと木村さんの二作について、両作を読んだ結果、私はこうした関係が発生しておかしくないと思った。つまり二人とも新自由主義的な格差社会の中において、東京を舞台にし、「ビルの窓ふき」という不安定な職業(立場、環境、収入など。象徴してる)の若者の関係性と内面を描いている。

古市さんの「百の夜は跳ねて」は、木村さんの「天空の絵描きたち」が提示したプレカリアスな状況の中で、誇りを持って働く主人公やその仲間たちという「職人」の物語について、なんらかの応答を含んでしかるべきだった。が私には、それが読めなかった。腹を立てた芥川賞の一部の選考委員たちにも、そうだったのではないかと推測する。

「百の夜は跳ねて」にとって「天空の絵描きたち」は、単なる便利に使った情報源の一つでしかなかった、というように見えるということである。

ただし、話をひっくり返すようだが、「情報源の一つ」として先行作品を使うことが、すなわちアウトということではない。

それは奥泉光さんが選評で言っていた、「小説はそもそも、すべてパッチワークだ」(大意)(注)ということに関わる。私はこの意見に同意する。だから、古市さんは「天空の絵描きたち」を単なる「情報の一つ」として使ってもいい。

問題はこの先である。じゃあパッチワークして何をどう書いたか?その質は?という話である。ちょっと辛口になってしまうけれど、私には「百の夜は跳ねて」はパッチワークの、それぞれの布片が、布片のままになりがちで、全体としての図柄が浮かび上がらなかったと思う。

もしも全体としての図柄の描画に成功していたら、おそらく同作は木村さんの小説とは、「モチーフこそ共通するもののまったく別の作品」として評価されていたと思う。

最後蛇足だが、私は古市さんの作品3作は全部読んでいるけれど、最先端的な固有名詞へのこだわりが強いんだよね。田中康夫「なんとなくクリスタル」的な方向を意識しているのかもしれないけれど、物自体が語るほど徹底していないから、どうも連発されるおしゃれ名詞が気になって仕方ない…。


当初「すべからくパッチワークだ」と書いておりましたが、すべからく警察さんのご指摘を受けまして、「すべてパッチワークだ」と訂正いたしました。すべからく=すべての意味で使う人が増えておりますが、やはりまだ誤用というべきでしょう。

外交と天皇が憲法を越えるとき

いま、「外交」と「天皇」を理由に、現役の府知事が現役の県知事の辞職を求める超展開になっている。
www.asahi.com

愛知県知事は、「憲法通りにやります」と言っている。
その県知事に対して、府知事は辞職を求めている。
辞職を求める根拠は「憲法の外」にあることになります。
超法規的な根拠。

これは、表現の自由の問題を発端にしている出来事であるわけですが、表現の自由という重大な問題が軽く吹っ飛ぶぐらいの、やばい事態にしか思えません。

この先、外交が戦争に化けたら、天皇が法規を超越していた大日本帝国の時代が、本当にもう一回やってきてしまう。

戦争は国家を非常事態=例外状態におく。
非常事態に法を越えた力を振るえるのが最高権力者であるわけだけれど、上の府知事的な発想で「天皇」を法を越えた例外的存在に奉っていくと、遠からず「法の外」に天皇が立ってしまう。
いったんそうなったら、そこから出てくる命令=勅令を止める力はどこにもなくなる。
法の外部に、「例外」として君臨してしまうので、もう手も足も出ない。

ある人たちは、それを望んで、呼んでいる。
自覚しているのかどうかは知らないが、事実上、そうしている。
大阪府知事は、その風を読んでいるだけ。
そして、その風に乗りたい政治家は、彼一人ではない。

戦争なんて起こるはずない?
ドンパチやるだけが戦争と思っていたらいけないんじゃないかな。
ミサイル飛んでからが戦争、ではない。
戦争は、政治の、外交の、延長にある。

あ、ミサイルもう飛んでたんだっけ。

幼児と戦車

本日、以下のようなニュースを見ました。
this.kiji.is

たまたまこの前、息子が戦車のラジコンをほしいと言っていたのもあって、思ったことを書いてみます。

「はたらくくるま」と戦車

この手の「はたらくくるま」系の本は息子が幼稚園の頃何冊か持っていましたが、たしかにそこには自衛隊のはなかったと記憶します。機動隊のはあったような…。この本を実際に見ていませんが、報道のとおり、

全30ページのうち6ページで自衛隊の戦車や車両を取り上げ、中には潜水艦や自走りゅう弾砲など、車ではないものも含まれていた。

となると、「うーんそれはちょっとやりすぎ」というか「どうしてそうなった」という感じはします。批判が来るのもわかります。

男児」はバトルが好き

さて一方、「男児(ここを♂に限定するか大いに迷いがあり、「 」に入れたうえ、一番下にグダグダ書きます)を育てているほとんどすべての親は経験すると思うのですが、やつらは好戦的です。武器が好きです。棒をもてば剣とみなし、L字型のものは銃に化けます。格闘的な遊び(相撲とかプロレスとかレスリングとか)も好みます。

この前、遊びに行った先でラジコンをしている父子を見ました。「ああ、それアリですね」と思いまして、息子とふたりで検索して商品ページを見てみました。私としてはJeepとかランクルとかフォレスターとかその辺に行ってほしかったのですが、案の定、「戦車がいい!」と言いました。
www.youtube.com


妻に速攻で却下されていました──が、諦めているかどうかわかりません。

息子の気持ちは、かつて「男児」としてバトル好き文化に浸かっていた私には、よくわかります。

1980年頃の町のおもちゃ屋と戦争玩具

振り返ってみるに、1980年前後ぐらいの町のおもちゃ屋(私は1972年生まれです)には、兵器や武器があふれていました。「男児向け」コーナーの半分ぐらいは、広い意味で戦争がらみのものだったような気がします。

戦車、軍艦、戦闘機。
銃も流行ってました。コルト・パイソンとか44マグナムとか。
ガンプラガンダムのプラモデル)が売れていましたが、ロボット兵器も大量にありました。
私は買わなかったけど、戦場系のジオラマもあったと思う。
城の模型も、まあ戦争カテゴリに入る。
空気銃もあった。BB弾のやつとか。町中の路上にはオレンジのタマが転がっていた。

今や、「町のおもちゃ屋」という存在自体がほぼ絶滅寸前なので、もう上のような風景がわからない世代が増えていると思うけど、いま40代以上の世代は、こういう文化のなかで育ってきました。30代はどうなのかな。わからない。もう私はその時期おもちゃ屋に行かなくなっていたから。

我々40代の男性は、これらの戦争玩具文化に養育された結果、好戦的な世代に育っているのでしょうか? 一部、そのままミリオタの道に進まれた方もいると思いますが、大多数はいつか卒業していきます。

現代子供文化の脱-戦争化

現代の子供の文化は、脱-戦争化が進んでいるなと思います。それは親たちの好みの反映でしょう。いまの子供の親は30代や40代で、特に多くの「男親」たちは自分の子供時代に上記の戦争玩具文化に多かれ少なかれ接触してきたはずですが、不思議なことです。私自身そうなんですから、私自身、不思議です。

子供向けの夕がたアニメとかに付き合っていても、「こいつらほんとに生身で殴り合わないなぁ」と思います。ポケモン妖怪ウォッチパズドラ爆丸バトルプラネットも遊戯王も、全部「代理バトル」ですよね。まあ、ボルトとかワンピースとか、生身で戦うのもありますから、全部とは言いませんが。(代理バトルは戦争じゃないのか、という問題もあるか)
たまたま今、地元のテレビではセーラームーンR[1992年~]やってますが、生身で普通に殺し合っていて、おお女の子なのに!とむしろ新鮮です。その前やっていたのが「アイカツフレンズ!」だったから、なおさらかもしれない。

戦車に触れると戦争好きになるのか

最初に戻りますと、当該の本のページ比率や潜水艦(車なわけないだろ)は変だと思いますが、子供たちの眼前からそんなに神経質に戦争(玩具)文化を取り除く必要があるのだろうか、と思います。

むしろ先に取り除くべきなのは、大人の世界のリアル兵器じゃないのだろうか、と思ったりもします。子供の目の前からいくら兵器を見えなくしたって、実際兵器はこの日本も含め、世界にあふれているわけで。日本は、自国の中の兵器を、なし崩し的に海外でも使えるようにしつつあるわけで。アメリカの超高額な戦闘機を気前よく爆買いしたりしているわけで。監視するならそっちが優先じゃないかなぁ。

幼児たちは、たぶん戦車に興味を持ちますが、その興味は知らない間に摩滅して、任天堂スイッチが欲しいと言い出すようになり、愛だ恋だに目がくらむようになり、しまいに親に何も言わなくなり、そして平々凡々たる大人になっていきます。

あんまり神経質に、検閲しなくてもよいのではないかと思います。
子供から大人への道筋は、単線じゃない。
表現を見ること読むことと、実際に行動を起こすこととのあいだには、ちゃんとギャップがある。
私たちはそんなに単純じゃないですよね。
あんまり厳しい検閲マインドは、社会の窮屈さの水位を上げるだけじゃないかなと思います。

男児」をめぐる補足的注記


私は、性別の役割分業や、性に付随する文化的嗜好は、成長の過程で周囲の文化に接触して、養われていく、と基本的に考えています。ただ、ぜんぶ「周囲の文化」起源なのか、ということについて、子育てをするうちに考え込むようになってきました。単純に言えば、「生まれつき」なのか「育ち」なのか問題です。男の子は男の子だから生まれ持って好戦的なのか。それとも、周囲の男の子文化に接触するうちに、好戦的になっていくのか。

もちろんこの問題には、無視できない「例外」の問題もあります。戦争玩具文化にまったく興味のない男児がおり、逆にけっこうバトル好き、戦争玩具好きの女児がいる。かれらは「例外」なのか。そうではないでしょう。それは単に人数の比率からして「例外」といわれるだけで、彼らにとってはそれが「自分の普通」ですよね。他人と比べてどうこうは関係ない。男の子なのに戦車すきじゃないんだ?とか男の子なのにピングが好きなの?とか女の子なのに戦闘機に興味があるの?とか、本人にとって、大きなお世話であります。

男の子たちは、「概して」戦闘的だったり戦闘にまつわるものに興味を持ったりするようにみえる。自分自身や周囲の親たちとの意見交換、保育園での観察レベルなので、まあ「自分調べ」の域は出ないですが。この「概して」って、なんなんでしょうか。ヒトが生物である以上、身体にビルトインされた振る舞いってのは、あると考えるがむしろ自然かなと思います。ただ、どこまでが「生まれつき」でどこからが「育ち」なのかの腑分けが、すべての面においてできるわけはありません。

というわけで、この「生まれ/育ち」問題は興味深い問題ですが、(学問では別として)一般に追究してもにさして言いはないと思っています。混じっていくよね、それ、という当たり前の答えに突き当たる。
重要なのはとにかく、男児だから●●」「女児だから××」という枠内に、個別の「その子」を押し込めるのは、やめてあげようね、ということでしょう。