メールアドレスの変更について
所属組織のメールサーバの運用変更により、この3月で日比の大学メールアドレスが変わります。今後の連絡先については、下記をご覧下さい。
最近頂戴した本 4冊
Twitterでも紹介しましたので、以下貼ります。省力モード。
恵贈感謝★黒田 俊太郎『「鏡」としての透谷──表象の体系/浪漫的思考の系譜』翰林書房2018
— 日比嘉高 (@yshibi) March 15, 2019
ぱっと目、北村透谷についてのしぶい内容にも見えるのだけど、実はのっけからメルロ・ポンティの「鏡」の議論が出てきて、透谷を「鏡」としながら自分の姿を見つめた人々(続)https://t.co/QuyIw4LYpO
黒田本、書影であります。 pic.twitter.com/fwX2qUnQ9g
— 日比嘉高 (@yshibi) March 15, 2019
「荒地」派の詩史的再評価、新資料発掘(全集未収録の詩、書簡、目次細目)などなど、いずれも大変な時間をかけた労作です。日本の戦後詩史を考えるとき、長く参照されていく基本図書になるでしょう。
— 日比嘉高 (@yshibi) March 15, 2019
小説の作品論が五章、俳句論が一章。特徴的なのは、下岡さんによる黄霊芝へのインタビュー三編が収録されていることでしょう。そのほか「台湾に於ける主な日本語文芸グループ一覧表」「黄霊芝略年表」も付されています。作家黄霊芝の全貌を日本に紹介する貴重なお仕事です。
— 日比嘉高 (@yshibi) March 15, 2019
編者二人の懇切な解説と関連年表付き。さらに中野による堀田論、堀田による中野論を採録。さらにさらに竹内好の中野論、加藤周一の堀田論、鶴見俊輔の中野論を採録。だめ押しに二人に身近に接した蒲田慧、海老坂武、栗原幸夫の文章も収める。これでもかっ!という編者と書肆の気合いを感じる一冊です。
— 日比嘉高 (@yshibi) March 16, 2019
頂戴した本はまだまだまだまだあるのですが、順次、挙げていきます。まず手近な(文字通り机の上の方にあった)4冊でした。
ご恵投下さった他の著者/編者の皆さん、申し訳ありませんが、今しばらくお待ち下さい。
- 作者: 田口麻奈
- 出版社/メーカー: 思潮社
- 発売日: 2019/03/14
- メディア: 単行本
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- 作者: 黒田俊太郎
- 出版社/メーカー: 翰林書房
- 発売日: 2018/12/10
- メディア: 単行本
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- 作者: 下岡友加
- 出版社/メーカー: 溪水社
- 発売日: 2019/02/28
- メディア: 単行本
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- 作者: 竹内栄美子,丸山珪一
- 出版社/メーカー: 影書房
- 発売日: 2018/11/22
- メディア: 単行本
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文化資源とコンテンツを文学研究的に論じるための覚え書き――文豪・キャラ化・参加型文化
日比嘉高、『横光利一研究』17号、2019年3月、pp.63-74、研究展望
日本近代文学館で行われている「新世紀の横光利一」展に合わせて、『横光利一研究』(17号、2019)が刊行されています。特集は「文化資源(コンテンツ)としての文学」。私は次の研究展望を載せています。
概要(を説明した「はじめに」部分の引用)
1.はじめに──文学の生態系(エコシステム)の変化
この覚え書きで私は、次のことを考えてみたいと思っている。一つには、「文化資源」および「コンテンツ」という言葉を導きに、文学の生態系(エコシステム)で起こっている変化を捉えることである。この二つの言葉の来歴、含意、射程を確認した上で、付随して「プラットフォームの横断性」や「参加型文化」「キャラクター」についての検討を行いたい。そして最後に、生態系の変化のなかで文学研究もまた変わっていくと考え、その展望を探ってみよう。文学作品を論じる理論的枠組みは、「作品」から「テクスト」へと動いたが、文学の創出と享受に関わる主体と環境の相対としての生態系の変化を視野に入れた場合、「作品」から「コンテンツ」への移行を検討しうるかもしれない。また昨今の「文豪」への注目は、あらためて、キャラ化されたものを含む「人」への関心の強さを我々に示しているようにも思われる。〈作者の死〉以後の作家そして登場人物のあり方を考える必要がありそうだ。
本文では、次のような節を並べています。
2.「文化資源」を考える道具立て
3.「コンテンツ」を考える道具立て
4.コンヴァージェンスと参加型文化
5.生態系の変化の中で
6.「キャラ化」という文脈最適化
7.おわりに──生態系の変化の中で文学研究は何を行うのか
遅すぎる子供と早すぎる大人
息子が遅すぎる
息子は小1になっているのだが、どうにも行動が遅い。着替えも遅い、食べるのも遅い、勉強を始めるのも遅い、遊びをやめるのも遅い。給食はクラスで一番最後に食べ終わり、プールの教室でも一番最後に着替え終わる。
遅くなってしまう理由は色々あるようだけれど、その一つには「時間とタスクの俯瞰能力」の問題があるような気がする。子供なら誰だってそうだ、という特性であるわけだが、今日はそのことについてつらつら無駄話してみる。ひさびさの子育てネタだ。
時間とタスクの俯瞰能力が育っていない
出かける10分前になって、歯も磨いてない、トイレも行ってない、ハンカチも持ってない、それなのに俺はまだ笑いながらパンをかじっている、ということに気づけば、大人は「うわ、やば」となってスイッチが切り替わる。残りの10分間が俯瞰できるからである。
子供は、それがうまくできない。私の息子もタスクのリスト(歯磨き、トイレ、ハンカチ…)はわかってはいるようだが、それと10分間の持ち時間のサイズ感や、10分間の過ごし方のイメージが結べないようである。
5時半から「ゲゲゲの鬼太郎」を見たいなら、あと30分の間に宿題終わった方がいいよね、ということを理解し納得するのだが、物音や机の上の物品にあっという間に関心を持っていかれてしまい、「30分の俯瞰」が「目の前の関心」にいともたやすく打ち倒される。結果、鬼太郎の開始にはやっぱり間に合わないのである。
リュックサックにキーホルダーを付けるな
保育園の時、リュックサックにキーホルダーやらいろいろ付けてはいけない、と園から指示が来た。うるさいなあ、そんなところまで口出ししなくても安全である限りいいじゃないか、と思ったのだが、その理由の説明にそやねぇと納得した。リュックに何かついていると、子供はそっちに関心をもっていかれてしまう。リュックを持って集合、先生のお話を聞きます、というときなどに、目の前に現れたキーホルダーが格好のおもちゃになって、ごそごそと遊び始めて耳がお留守になってしまう、ということだった。
我が子を見ていてよくわかる。目の前の棒きれはすぐに鋭い剣に化け(ヤアっ)、L字型っぽい形状の物品はピストルとなり(バキューンバキューン)、四角いものは車に(ぶいーん)細長い器か円柱は戦艦(波動砲ッ!ドワーン 宇宙戦艦ヤマト絶賛流行中)となる。穴があれば覗き込み、鏡があれば変顔でふざけだし、シモに結びつくネタを目に耳にすれば即座に「おし○、お○ぱい、○ん○ん、う○ち」×nでテンション急上昇↑
大人はそうではない。目の前のなにごとかに関心を持っていかれそうになっても、時間とタスクの俯瞰をすることができるから、やるべきことのトリアージができる。それは、大人が大人になる過程で時間をかけて身につけてきた能力である。
時間がないとき、チンタラいつまでもやっている息子に腹を立てる。早くしろよ。早くやれよ。早く大人になれよ、と。
でも、ふと思う。俯瞰がいつもいいとは限らない。
俯瞰がいらないとき
子供と一緒に、近所の公園に遊びに行った。もう夕方に向かう時間帯だった。寒い日で、風も強く、全然乗り気ではなかった私は、適当に受け流しながら、彼の遊びに付き合っていた。
頭の中では、別のことを考えていた。……あと何分で帰った方がいい。帰ったら遅くなっているおやつを食べさせて、宿題やらせないといけない。鬼太郎の前に、だ。寒いし。体も冷えるし。さっきから鼻水出てるじゃねーか。そういや、あのメール書いてないわ。あ、あれもそろそろリマインドしないとな。……
子供は、全力で遊んでいる。ちょっと前から「石の隠しっこ」がブームなのだが、必死で私が隠した石のありかを探している。「えー、どこー、どこー、このへーん?」
「あー、そのへん、そのへんだなー」とヒントを出す。「あったっ!」と見つけて走ってくる子供を見て、ふっと自分がうまく笑い返せないと思う。心がここにないから。私の心は今を俯瞰して、高いところから見てしまっているから。
言うことがころころ変わる先生
「○○先生、もーほんと相談に行くたびに言うこと違うんだもの」と、知り合いが昔大学時代の恩師を振り返ってそういった。思い出話として。
今私は同じような立場に身を置いて、その先生のことがわかる。彼の心はそこになかった。別の仕事、別の講義、別の論文、別の学生、家のこと、自分のこと、その他色々なことを同時にやっている。その都度その都度、各仕事はそれなりにまじめにやっていて、目の前の学生の相談にも真剣に向き合う。
けれど、相談の場に臨んで集中し相手に向き合うが、同時に俯瞰する自分も上空で走っている。目の前のタスクは、その場のタスクとして処理されて、持続しない。結果、この相談と次の相談の連続性は、途切れがちになる。
俯瞰のスイッチを切る
俯瞰することによって大人はタスクを管理し、処理スピードを上げている。それは人が社会化していく上でどうしても必要な能力だ。
けれどそれによって、たくさん受けとめられるはずの何かをわずかにしか手にしなかったり、大切に育てられる何かを知らぬ間に毀損してしまうことが、あるのかもしれない。
俯瞰のスイッチを切る時間が、大人には時に必要なのだろう。
なお、えらそうに書いたこの文章は、締め切りをとうに過ぎた某論考が行き詰まった逃避として書いている。タスクを俯瞰するのって難しいですね(涙)
発表者募集 東アジアと同時代日本語文学フォーラム 2019 台北大会
東アジアと同時代日本語文学フォーラム 2019 台北大会 の個人研究発表・パネルセッション の募集が始まりました。
特集は「海から見る東アジアの文学と文化」です。発表は、特集に関係したものでも、自由なテーマでもかまいません。
詳細はこちらをご覧下さい。
eacjlforumweb.wixsite.com
(以下は、上掲のリンク先と同内容です。リンク先の方が読みやすいと思います)
募集の概要
「第7回 東アジアと同時代日本語文学フォーラム 2019 台北大会」では、本大会および次世代フォーラムにおいて発表を行う、個人研究と3~5名程度で構成されるパネルセッションを募集します。
個人・パネルともに、特集に関係するテーマと自由なテーマのいずれでも応募できます。
大会日時: 2019年10月25(金)~27日(日)
※ 本大会・次世代フォーラムそれぞれにおいて、個人研究発表とパネルセッションが行われます。
場 所: 政治大学(25日午後、台北市)
東呉大学(26日および27日午前、台北市)
テーマ : (1)日本語文学・文化についての研究 [テーマ自由]
「東アジアと同時代日本語文学フォーラム」の趣意に合致することが望ましいで
すが、必ずしもそれに限定しません。
同フォーラムについては、雑誌『跨境 日本語文学研究』最新号(http://bcjjl.org)、もしくは下記ページをご参照下さい。
http://japan.kujc.kr/contents/bbs/bbs_content.html
(2)大会特集「海から見る東アジアの文学と文化」に関連する研究
特集の趣旨文を本メールの末尾に掲げました。
応募資格: (A)次世代フォーラム:大学院生。発表言語は日本語とします。
(B)本大会:とくになし。発表言語は日本語とします。
応募方法: 申し込み書をダウンロードし、必要事項をご記入の上、下記までお送り下さい。申し込み書式のダウンロードはこちらから可能です。
※ 台湾からの応募者 mako.mkt@gmail.com (担当・賴怡真)
※ 台湾以外の地域からの応募者 forum.eastasia.jlit@gmail.com (担当・中野綾子)
〆 切: 3月15日(金)必着
審 査: 応募いただいた内容は、同フォーラム大会運営担当者によって審査し発表の可否を判断します。可否の通知は4月初旬を予定しています。
旅費補助: 次世代フォーラムの参加者に対しては、参加者が所属大学等から旅費の支給が得られない場合に限り、本フォーラムが獲得した助成金の範囲内で、旅費の補助を行います。
原稿提出: 本フォーラムでは予稿集(PDF)を発行します。予稿は、既定のフォーマットで、一人あたりA4で2ページ以内となります。原稿の〆切は9月末頃を予定しています。
台北大会 特集 趣旨文
「海から見る東アジアの文学と文化」
航空機が発達する以前、異文化、他民族との交流は、多くの地域において海を介して行われてきた。日本の歴史を考えてみても、さかのぼれば遣隋唐使、鑑真和尚の来日から、南蛮船の来航や朱印船貿易、使節団や漂流民、黒船の来航など、いずれも海を媒介としている。
海洋に浮かぶ「島」台湾について考え合わせてみるのもいいだろう。17世紀のオランダとスペインによる北部南部の領有、その後鄭成功によるヨーロッパ勢力の排除と東寧王朝の樹立、19世紀に入ってからの日本による領有、20世紀の中国国民党政府の樹立へと歴史は続く。いずれも海を媒介にして起こった変転である。
日本や台湾だけではない。考えてみれば東アジアの各地域は、中国大陸と朝鮮半島を除けば、陸続きのところは一つもなく、そのほとんどが海によって接続されているのである。
海は人を運び、物を運んだ。商人を、軍人を、学生を、家族を運んだ。商品を、武器を、本を、教科書を、映画を運んだ。張り巡らされた海運のネットワークが各地の港湾都市を結び、陸路と接続し、各々のローカルな社会をグローバルな物流と情報の網の目に組み込んだ。東アジアの文化は、海を媒介にして形成された人と物と情報のネットワークによって培われてきたのである。
近代の日本語文学もその例外ではない。各地域の文学的近代の幕開けは、海を越えてやってきた〈外〉の文学のインパクトなしには考えられない。船によって運ばれた本や雑誌、新聞が、新しい文学を乗せて到来した。「舶来」の新奇で先端的な文学は、ローカルな文芸と混ざり合いながら、それぞれの近代文学を形成していった。
今回の特集は、「海から見る東アジアの文学と文化」とし、あらためて海との関わりから近現代東アジアの日本語文学・文化を再考する。「海から見る」ことの重要さは、「陸」から発想する思考を問い直せるということにある。「陸」の思考は国境などの境界を輪郭として成立する、割拠の思考である。これに対し、「海」の思考は、境界によって分割された海岸同士を結びつける、接続の思考である。それは分断を越えて広域を覆う平面として広がる。「海から見る」ことの可能性は、大都市を中心とした垂直的な中心/周縁のモデルではなく、「海」と
「陸」、分割と接続のダイナミズムが生み出す水平的な網状モデルによって、文化を考えられるところにある。新文学の流入を取り上げても良いし、海をテーマにした作品を論じても良い。海が結びつけた人や土地、想像力を論じることもできるし、海を跨いで広がった人/物/情報のネットワークを論じても良い。港を起点に考えることもできれば、海辺や渚に着目することもできよう。あるいは、島という場所の境界的なあり方に注目することもできる。人が海を渡った道具である船もまた興味の尽きないテーマだろう。
特定の地域に特化した議論だけでなく、広く海洋文学・文化といった視点から、台湾、日本、韓国、中国の四地域に跨って交差する文学と文化の軌跡を議論する。今回のフォーラムがそのような場となることを期待したい。
私たちはかしこく、冷静でありたい。
朴裕河さんの言葉。
「重要なのは、結果以上に対話自体である。対話が続く限り、過去の不幸な時間は克服可能だ。これ以上手遅れにならないうちに、いったい何が問題だったのか、この四半世紀の葛藤から振り返る必要がある。」
これまで以上の、感情の悪化を、私も肌身で感じている。
心配で気が滅入る。けれど、雰囲気に抗わなければと思う。
朴さんが言うように、メディアは一部の意見を拡大し、それが全部であるかのように報じる。
画面の外側には「そうじゃない韓国」や「そうじゃない韓国人」がたくさんいることを、忘れないでほしい。
「そうじゃない日本」「そうじゃない日本人」が大勢いるのが当たり前であるように。
揉めることによって利益を得ている人々が、揉め事を煽り、長引かせている。
私たちはかしこく、冷静でありたい。
感情に流されないでありたい。
私たちはそれぞれの手元に、これまでに結んできたさまざまな隣国との縁をもっているはずである。
メディアが与えてくる像ではなく、自分のなかにある縁を見失わず、できればそれを太くしていきたい。
来月はソウルから、東国大の先生と学生たちが研究交流にやってくる。
特別なことではないし、特別なことはしない。
ふつうに、勉強しあう。
ふつうに、歓待する。