日比嘉高研究室

近況、研究の紹介、考えたこと

謹賀新年 今年のことと去年のこと 附・2018のお仕事一覧

あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
年頭に際し、本年の抱負気味のことと、昨年の振り返りをしておきます。


2019年は

  • ほとんど出す出す詐欺と化していた、モデル小説がらみの単著をまとめます(きっぱり)。
  • 外地書店、書物流通関係の仕事を続けます。
  • 文学から読む現代日本みたいなのを構想しております。
  • 仕事以外の世界も大事にします。

2018年を振り返ると

  • 一番の挑戦は、『文學界』の「新人小説月評」でした。一年間、いい勉強をしました。
  • 最初の単著『〈自己表象〉の文学史』の第三版を出せたのもありがたかったです。版元の翰林書房には感謝。
  • 大学論、ポスト真実、というように文学から少し遠い仕事をしてきて、それをふりかえるタイミングでした。考えるところ、思うところ、いろいろありました。自分には何ができて、何をするべきなんだろう、みたいな。この「何をするべきなんだろう」には、能力や責任や立場のこともあるんだけれど、年齢のこともあったりします。気がつけば40代後半に入ってるんだよなぁ。びっくりです。
  • そのほか、まとめてみれば、なんだかんだ色々やっていました。下記にまとめてみました。

2018年の主な仕事 まとめ

単著

『〈自己表象〉の文学史──自分を書く小説の登場』第三版
翰林書房、2018年3月
※ 「私小説研究文献目録」および「第三版あとがき」を増補
honto.jp
うーむ、品切れしてるのはなぜだ…。在庫はあるはずだが…。

共著

(1)
『日本文学の翻訳と流通──近代世界のネットワークへ』
河野至恩・村井則子編、勉誠出版、2018年1月
担当「マリヤンの本を追って──帝国の書物ネットワークと空間支配」pp.243-259

(2)
『일본 전후문학과 마이너리티문학의 단층』
韓国日本文学会編、보고사、2018年2月
担当「배제형 사회와 마이너리티」(排除型社会とマイノリティ)pp.410-425

(3)
『동아시아의 일본어 문학과 집단의 기억, 개인의 기억』
東アジアと同時代日本語文学フォーラム(嚴仁卿編)、역락、2018年3月
担当「도서관과 독서 이력을 둘러싼 문학적상상력」(図書館と読書の履歴をめぐる文学的想像力)pp.303-321

(4)
『「ポスト真実」の世界をどう生きるか――ウソが罷り通る時代に』
小森陽一編、新日本出版社、2018年4月
担当 第2章(小森氏との対談形式)

(5)
『怪異を読む・書く』
木越治、勝又基編、国書刊行会、2018年11月
担当「亡霊と生きよ――戦時・戦後の米国日系移民日本語文学」

研究発表

(1)
「文化資源となる文学、ならない文学――〝過疎の村〟で何ができるか」
横光利一文学会 第17回大会、日本近代文学館、2018年3月17日

(2)
「「満洲」における書物流通――満洲書籍配給株式会社以前、以後」
東アジアと同時代日本文学フォーラム 第6回、復旦大学、2018年10月20日

講演・イベント

(1)
(講演)「図書館を文学から覗いてみれば」
中部図書館情報学会、安城市図書情報館、2018年5月26日

(2)
トーク・イベント)「小説は東日本大震災を描けるのか?~「美しい顔」騒動から見えるもの」
石戸諭×日比嘉高、毎日メディアカフェ、2018年10月11日

(3)
(講演)「真山青果徳田秋聲 明治大正文壇交遊録」
徳田秋聲記念館、2018年11月18日

(4)
(講演)「ソーシャルメディアの今、日本の今を考える」
四国学院大学 人権週間講演会、2018年12月4日

その他の文章

(1)
「新人創作月評」『文學界』2018年2月~2019年1月

(2)
「外地書店を追いかける(10)戦時下の台湾書籍界」
『文献継承』金沢文圃閣、第32号、2018年3月、pp.12-15

(3)
「外地書店を追いかける(11)―本屋の引揚げ、本の残留・序」
『文献継承』金沢文圃閣、第33号、2018年10月

(4)
書評「西成彦『外地巡礼──「越境的」日本語文学論』」
週刊読書人』3231号、2018年3月16日

(5)
書評「八巻和彦編『「ポスト真実」にどう向き合うか──「石橋湛山記念 早稲田ジャーナリズム大賞」記念講座2017」
週刊読書人』3240号、2018年5月25日

(6)
書評「本田由紀編『文系大学教育は役に立つのか 職業的レリバンスの検討』」
週刊読書人』3268号、2018年12月8日

その他 取材協力など

(1)
(インタビュー)「巻頭インタビュー ポスト真実時代と市民社会
ボランティア・市民活動情報誌『ネットワーク』352号、2018年2月

(2)
(取材協力)「事実に基づかない政治という病」
東京新聞、2018年3月2日 特報欄

(3)
(取材協力)『AERA』の特集「ウソつきとは戦え」
2018年6月11日増大号

(論文)亡霊と生きよ――戦時・戦後の米国日系移民日本語文学

木越治・勝又基編『怪異を読む・書く』国書刊行会、2018年11月所収、pp.443-461

(要旨)

この論考は、米国日系移民の日本語文学を主な検討の対象としながら、亡霊と記憶と文学をめぐって考えたものである。分析の対象とする作品は、戦後の米国日系人が刊行した日本語雑誌『南加文藝』所収の小説や詩歌、追悼記事、そして戦後の米国日系新一世による短編小説であるスタール富子「エイミイの博物館(ミユジアム)」、最後に戦時下の反米プロパガンダ移民小説である久生十蘭『紀ノ上一族』である。

亡霊とあわせて本論考が焦点をあわせるのは、記憶とその相続である。導きとなるのは、ジャック・デリダの亡霊論(『マルクスの亡霊たち』)である。米国に限らず、日系人の日本語文学に固有の問題として、継承の困難さがある。日本で生を受け、その後移住地へとわたった移民一世は当然日本語を話すが、二世の多くは現地の言葉を主言語とするようになる。これにより、世代間のコミュニケーションの難しさが生まれるだけでなく、文学的にも断絶が引き起こされる。日系人の日本語文学は彼らの経験を伝える記憶のメディアだといえるが、そのメディアの中に形作られた記憶は、誰に手渡しうるのかという問いにさらされる。消え失せていく一世とその日本語の文学は、いかにして忘却にあらがうのかという問題系がここに立ち上がる。

戦時をくぐり抜け戦後を生きながらえた日系日本語文学は、数多くの仲間の、家族の、そして作り手たち自身の死を経験する。そこで文学の言葉は、死を語り、死者を語り、ときに死者に語らせはじめる。記憶の継承を求めた日系人の文学は、言葉を換えれば、のちの読者であるわれわれに、死者の言葉に耳を澄ませるよう求めているといえるかもしれない。死者を語る移民の言葉に耳を澄ませ、亡霊をして語らしめたい。


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紹介『怪異を読む・書く』、あるいは木越治先生の追想

最近共著として国書刊行会から出版した『怪異を読む・書く』について紹介をしたいのだが、順を追って木越治先生との思い出から書く。本書は、木越先生の古稀記念出版として企画され、そして予想もしなかったご逝去を受けて、御霊前に捧げる追悼論文集となってしまったものである。

怪異を読む・書く

怪異を読む・書く

木越治先生のこと

近世文学研究、なかでも上田秋成の研究者として知られる木越治先生は、教養教育を担当する先生のお一人として、私の前に現れた。金沢大学の学部生のときだった。

先生の教え方は、必ずしも体系的なものではなかった。そのときそのときの先生の関心を直接的に反映させたテーマ設定がされていて、江戸文芸を扱うこともあれば、源氏物語を扱ってパソコンへのテキスト入力と組み合わせるような授業をされたこともあったと記憶する。

近代文学で卒論を書こうとしていた私にとって、近世がご専門の木越先生は近い先生とは言えなかったはずだが、いくつかのきっかけがあって卒業後もお付き合いをさせていただくような関係となった。

一つは、源氏物語を扱った授業のレポートで、比較的良い評価をもらったことだと私は思っている。先生の点は辛く、普通に受講し、普通にレポートを書いた学生たちが、何人も単位を落としていた。私は、六条御息所の生霊の歌を軸にしながら、同じぐらいの時代のいくつかの似たような魂が離脱する表現の歌と組み合わせ、クリステヴァのインターテクスト論の味付けをしてレポートに書いて、良い点をもらった。「クリステヴァ使わなくても言えるよね、これ」と先生に笑いながら言われたことを覚えている。角間キャンパスの国語国文研究室にいたときだった。文学理論をつかってレポートを書いたのはこれが初めてだった私は、それを受け入れてくれた木越先生という先生に親しみを持ったし、おそらく先生も、授業でやったこととは異なる妙なレポートを書いた学生に関心を持たれたのかもしれない。そのときの先生の採点は、完全に、授業を理解したかという観点ではなく、それが論考として面白いかというただ一点からされていたように思う。

もう一つのきっかけは、パソコン講習会だった。1993年とか94年のことだったはずである。木越先生はパソコンに関心があり、正規表現を使ってデジタル・テキストを比較したり置換したり並べ替えたりという作業が、文学作品の本文校訂や本文理解の手助けになるという見込みをもたれていたと思う。(たんに新しもの好きだった、という面もきっとある)

当時、文学部の学生の大半は、ワープロ専用機を使っていて、数%はまだ手書きでレポートや卒論を書く時代だった。そんな中、パソコンを使うということは、とても珍しいことだった。先生が授業外でパソコン・ゼミをすると学生を誘ったとき、私はなんだか面白いことが始まりそうだという強い関心を持っていそいそと参加した。

この部分を詳しく書くと長くなりそうなので端折るが、私はそのゼミや、そのゼミ以外の私的な交流の中で、先生やその周囲の人たち(本書に執筆されている高橋明彦さんもそのお一人だった)から、正規表現を使ったgrepsedなどというコマンドの使い方を習い、短いバッチファイルを書くことを覚え、MS-DOSの中古ノートパソコンを買い、そのカスタマイズの仕方を教えてもらった。vzエディタを薦められ、後にLatex組版して印刷するようになった。現在、HTMLで個人ページを作り、ブログを書き、TwitterFacebookをやっている私の、パソコン文化との接点を作って下さったのは、木越先生である。

金沢市大場のご自宅にも、二三度お邪魔したことがある。すきやき会をして下さった。奥様の秀子さんやお嬢さんもいらした。俊介さんとも、そのどこかでお目にかかったのだと思う。

自分の肉体を形作っているのは、両親から受け継いだ形質であるわけだが、大学教師としての自分を形作っているのは、自分が教えを受けてきた数多くの先生方なのだと最近しばしば感じる。私は学部と大学院が別だったし、大学院では二つの研究室の授業を半々ずつぐらいで取っていたから、「先生」の数が多い。直接の指導教員だった金沢大学の上田正行先生や、筑波大学大学院の名波弘彰先生はもちろんだが、金沢の島田昌彦先生、古屋彰先生、西村聡先生、筑波の荒木正純先生、阿部軍治先生、今橋映子先生、宮本陽一郎先生、池内輝雄先生、新保邦寛先生の授業や学生への接し方の端々が、自分が自己認識する教師像を形作っていることを感じる。むろん、人は他人にはなれないので、先生たちの「いいとこ取り」を我流で目論んでいるだけなわけであるが。

木越先生も、もちろんそのお一人である。私は木越先生のざっくばらんな学生との接し方が好きだったからそれをまねたいと思っているし、先生の厳しく戦闘的な研究者としての態度はあこがれであるし、何事に付けても好奇心旺盛で研究の世界に留まらず周りの人を巻き込んでいく人間としてのあり方に、学びたいと思っている。

先生はもう去られてしまったが、先生の残してくださったもの──情けないことにそのわずか一部であるが──は、私の中に残っていると感じている。

先生、ありがとうございます。

『怪異を読む・書く』

本書は、『怪異を読む・書く』と題した論文集である。集まったのは近世文学と近代文学の研究者26名である。490頁に迫る大冊となった。

方法論的な統一性があるわけでもないし、時代ももちろんバラバラである。したがって、通読してなにか全体像やビジョンのようなものが見えてくるようなそういう本ではない。

だが収められた論文は、高質である。不勉強と怠惰から、古典文学の論文に目を通す機会が少ないのだが、今回「怪異」を軸にした論考を読み重ねていって、その精緻さと、同時に展開する時代へのまなざしの鋭さ、面白さに何度も感嘆した。

やはり、「わからないこと」ににじり寄っていく挑戦的な研究には読み応えがある。近現代の材料を扱っていると、テキストの中も外も見当がつくことが少なくない。けれど、古典の世界はそうではない。古典の世界を「現代風に」読むことはよくあるし、それも裾野を広げる意味では重要だけれども、現代人とは違う世界観、感性を生きていた人々の姿が、そうした現代化によって消し去られてしまうことも確かだ。

今回の論文集のなかのいくつかは、作品の表現を精読し、同時代の資料と組み合わせながら、怪異をめぐる「時代の感性」をあざやかに切り取っていた。西村先生の「〈鉄輪〉の女と鬼の間」、西田耕三さんの「怪異の対談」、風間誠史さんの「怪異と文学――ラヴクラフト、ポオそして蕪村、秋成」、勝又基さんの「都市文化としての写本怪談」が私は好きである。

近代文学を対象とした論考もいくつか入っている。夏目漱石泉鏡花小林秀雄徳田秋聲、そして拙論の日系アメリカ移民文学である。(拙論については、記事を改める)

もちろん、木越治先生の御論考もある。既出論文の再掲となったが、上田秋成の『雨月物語』を論じた「Long Distant Call――深層の磯良、表層の正太郎」が収められている。また丸井貴史さん編の「木越治教授略年譜・著作目録」も付された。

目次の詳細は、以下にある。どうか、関心のあるところから読んでみていただければ幸いである。
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講演「真山青果と徳田秋聲 明治大正文壇交遊録」

以下の講演をします。秋の金沢へ、ぜひ。

 

真山青果徳田秋聲 明治大正文壇交遊録」

日比嘉高

徳田秋聲記念館(金沢市)

11月18日(日) 14時から

※ 同日13時から秋聲忌の墓前祭です。f:id:hibi2007:20181031081251j:imagef:id:hibi2007:20181031081304j:imagef:id:hibi2007:20181031081321j:image

「満洲」における書物流通――満洲書籍配給株式会社以前、以後

第6回 東アジアと同時代日本語文学フォーラム 上海大会、2018年10月20日復旦大学

[概要]

この報告では、「満洲」における日本語書籍の小売・流通史を追跡した。対象としたのは日本語の書物を扱った日本人経営の書籍店と、それら書店へ内地からの書籍を運んだ取次業者である。なお本発表でいう「満洲」とは、日本の傀儡国家であり統治的・文化的実験場でもあった「満洲国」および関東州を主に指すが、「満洲国」成立以前の同地域の状況も考察の対象とした 。
 今回は細かな事実よりも大きな骨組みを示すことを目指し、時代順に論述した。具体的には、日清戦争以後、満洲書籍商組合成立以後の書籍小売・流通史、一九三〇年代における各書籍店のプロフィールと活動、満洲の読書人たちの残した記事の検討、満洲書籍配給株式会社の成立と満洲国の廃滅までである。
 

小説は東日本大震災を描けるのか?~「美しい顔」騒動から見えるもの(毎日メディアカフェ)

震災の表現と「剽窃」問題で議論になった「美しい顔」を起点に、ジャーナリストの石戸諭さん@satoruishido とトークイベントを行います。

「小説は東日本大震災を描けるのか?~「美しい顔」騒動から見えるもの」
石戸諭×日比嘉高
10月11日18:30~
毎日メディアカフェ

mainichimediacafe.jp

関連する記事・番組などについて(日比「美しい顔」関係)

2018.7.17 AbemaTV 「AbemaPrime」に出演・コメント
2018.9.1 日経新聞「小説「美しい顔」類似論争、「事実と創作」議論欠如に原因、作家のモラルの問題、参照記載ルールなく(文化)」朝刊 40ページでコメント

Inheriting Books: Overseas Bookstores, Distributors, and Their Networks

Keynote Panel "Evidence and the Challenges of the Humanities," Yoshitaka Hibi, Etsuko Taketani, Indra Levy, Christina Laffin, and Anne McKnight (moderator) , Sep. 7th, in 27th Annual Meeting of the Association of Japanese Literary Studies (2018), "Past, Present, and Future: Evidence, Transmission, and Inheritance in Japanese Literature and Media," UC Berkeley.

I talked about the book-distribution networks that existed before WWII and what I believe its significance is to our research. Also I briefly discussed university reform in Japan and the current crisis in the humanities and its connection to this research project.