日比嘉高研究室

近況、研究の紹介、考えたこと

近刊予告 『「ポスト真実」の時代―― 「信じたいウソ」が「事実」に勝る世界をどう生き抜くか』

津田大介さんとの共著で、『「ポスト真実」の時代―― 「信じたいウソ」が「事実」に勝る世界をどう生き抜くか』(祥伝社)という本を出します。

書店に並ぶのは7月2日頃の予定。現在、Amazonで予約受付中です(「ポスト真実」の時代 「信じたいウソ」が「事実」に勝る世界をどう生き抜くか)。

目次はこんな感じになりました。

はじめに(日比嘉高)
第1章 「ポスト真実Post-Truth」とは何か(日比嘉高)
第2章 日本におけるポスト真実(日比嘉高)
第3章 ポスト真実時代の情報とどう付き合うか?(日比嘉高)
コラム「イギリスEU離脱」「ピザゲート事件」「オバマ盗聴事件」「沖縄と『ニュース女子』問題」(津田大介)
第4章 ポスト真実時代の政治、メディアとジャーナリズム(津田大介)
第5章 対論 「ポスト真実」時代をどう生き抜くか(津田大介×日比嘉高)

ポスト真実」に関連する書籍や雑誌特集はいくつか出ていますが、この本には次の特徴があります。

  1. ポスト真実」「フェイクニュース」など関連するキーワードについてまとまった説明を加えている
  2. 主要な事件や出来事について、情報をまとめている
  3. ポスト真実」の時代を生み出した時代的・環境的背景を分析している
    1. ソーシャルメディアの影響」
    2. 「事実の軽視」
    3. 「感情の優越」
    4. 「分断の感覚」
  4. Brexitやトランプ政権の問題だけでなく、日本の状況の考察にも力を注いでいる
  5. で、結局どうすればいいか、なにができるか、について考えている

というわけで、

  • 時事的なキーワードが知りたい
  • ブレグジットとトランプを生み出した背景が知りたい
  • 日本が「ポスト真実」の時代ってどういうことだか知りたい
  • いくら何でも今、嘘がまかり通りすぎだろと思う
  • どうして嘘つきが横行するのか知りたい
  • このまま行くとどうなっちゃうの、この世界
  • それでどうしたらいいのか知りたい

という方にお勧めです。
ぜひ手に取ってみて下さい~


比喩からことばをひらく(講演)

先日、尾張地区の高校の国語の先生方向けの研修で、講演をしてきました。テーマはこちらにまかせて下さったので、以前からの持ちネタの一つである、比喩の話をしてきました。題は「比喩からことばをひらく」。

私の専門は日本文学・文化研究ですが、認知言語学の議論に前から興味があって、我流で勉強をしています。そのなかで、私が最初に一番興味を持ち、また今の仕事とか、前の職場(教育大の国語教員養成)で役に立ったものの一つが、認知意味論の比喩、とくにメタファー(隠喩)の話でした。

メタファー、たとえば「滝のような汗」のようなやつのことです。

学校教育だと、ふつう隠喩は「たとえを用いながらも、表現面にはそれ(「如し」「ようだ」等)を出さない方法。白髪を生じたことを「頭に霜を置く」という類」(広辞苑)みたいに説明すると思います。

しかし認知意味論的にいうと、メタファーというのは、写像関係・転写関係です。ソースになる領域についてのイメージ(滝)を、ターゲットになる領域(汗)に写像する。我々はこの認知プロセスによって、ものごとを、より簡単に・効率的に・生き生きと理解しているわけです。

それだけではない。認知意味論の主張によれば、メタファーの理解とはこうなります。

「メタファーというのは、ただ単に言語の、つまり言葉遣いの問題ではないということである。それどころか、筆者らは人間の思考過程(thought processes)の大部分がメタファーによって成り立っていると言いたいのである」
レイコフ&ジョンソン『レトリックと人生』7頁

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面白いですよねぇ。

それで、こんな感じの話をしながら、教科書の文章や、一般的な文章をもとに、比喩の前で立ち止まり、それをかみ砕いて味わってみよう!というような方向の話を、10年ぐらい前から、前任校時代の授業とか講演とかで話していました。

今回、久々に話すにあたって、これをちょっとだけバージョンアップしました。ネタもとは、鍋島弘治朗『メタファーと身体性』でした。この本、文学研究者にとっても超重要です。今年の後期、名古屋大大学院の私のゼミで取り上げますよ。

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この本の眼目は、メタファー理解に1990年代以降、いろんな分野で進行した身体(性)の議論を導入した点にあります。鍋島さんによる、メタファーの再定義はこうなります。

「「メタファーとは、現実とは異なるフレームの経験を想起し、その仮想的経験から生じた推論、知覚・運動イメージ、情動を現実に対応づける行為である。」
鍋島弘治朗『メタファーと身体性』ひつじ書房、2016年、89頁

私は単に、メタファーとは写像関係だとざっくり理解していましたが、「推論」「知覚・運動イメージ」「情動」が転写されると言われると、マジでうなります。例を出します。

「この前行った歯医者は、ほとんど拷問だった。」(日比・作)

リアルに想像すると、

ひー…。
ひー (>_<)

となりませんか。

なぜ、「ひー(>_<)」となるのか。それを解く鍵が、メタファーのもつ身体性にあります。写像のプロセスの中で、われわれは「推論」し「知覚・運動イメージ」を再現し、「情動」を喚起する。そしてそれらは、単に想像の中だけでなく、実際の身体・脳の反応として現れる、というわけです(鍋島さんはミラーニューロンなんかの話もされています)

たいていの人は、歯医者に行ったことがあるでしょう。あのベッド、そこから見上げるまぶしいライト、マスクと眼鏡をした歯科医、キュイーンという削る機械やら、唾液を吸い取るゴゴゴーというチューブやら、歯ぐきにブッ刺される注射針やら、なにやらかにやら、という音やら痛みやら匂いやら姿勢やら記憶やら、というのが私たちの身体/脳に埋まっています。歯医者に行くとはこういうこと、という一連の〈歯医者フレーム〉が、身体化されているわけです。

歯科治療を拷問で喩えた(歯医者さんすいません)上記のメタファーは、そうした〈歯医者フレーム〉を呼び起こします。拷問を受けたことのある人はほとんどいないでしょうが、そのイメージを持っているはずです。自由を奪われて、身体的あるいは精神的な痛みを一方的に与えられるというその拷問ついてのイメージや推論が、〈歯医者フレーム〉を喚起し、歯科医院における知覚やら運動イメージ、情動を呼び起こす、というのですね。

いやー、面白い!

という話をしてきました。鍋島さん、ありがとうございます。ご著書、宣伝しました。ちなみに前段では、高橋英光『言葉の仕組み――認知言語学の話』(北海道大学出版会2010年)を参照したのでした。高橋さんのも宣伝して来ました。(あ、わたしは鍋島さんとも高橋さんとも知り合いではないです)

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“図書館文学” アンソロジー『図書館情調』が発売されます

図書館に関係した小説や詩を集めたアンソロジー『図書館情調』が発売されます。店頭には6日頃から並ぶそうです。
私の編で、解説も書いています。以下宣伝をかねてご紹介します。


日比嘉高編『図書館情調』皓星社、シリーズ紙礫9、2017年6月10日、273頁

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収録作品はバラエティと面白さと正典・新規性のバランスを考えました。一方解説では、近代日本の図書館の歩みを念頭において、それをおおまかにたどりつつ、外地や移民地の話、女性・子どもと図書館の話も忘れないように、と考えながら書きました。

収録作品は次のとおりです。

萩原朔太郎「図書館情調」

●第一部 図書館を使う
菊池寛「出世」
宮本百合子「図書館」
中島敦「文字禍」
竹内正一「世界地図を借る男」

●第二部 図書館で働く
渋川驍「柴笛詩集」(抄)
新田潤「少年達」
中野重治「司書の死」
小林宏「図書館の秋」

●第三部 図書館幻想
富永太郎「深夜の道士」
笙野頼子「S倉極楽図書館」
宮澤賢治「図書館幻想」
高橋睦郎「図書館あるいは紙魚の吐く夢」
三崎亜記「図書館」

解説 日比嘉高
参考文献

以上が収録作品です。この他、解説において、いろいろ他の図書館関連の小説や随筆・回想を引用したり紹介したりしております。なにせ解説は45頁も書いたからね(笑) 以下のような作家・作品が言及されます。

芥川龍之介『路上」「大導寺氏信輔の半生」「後世」
直木三十五「死までを語る」
三宅雪嶺「教場と図書館」
林芙美子「文学的自叙伝」
樋口一葉の日記
門井慶喜『おさがしの本は』
森谷明子『れんげ野原のまんなかで』
緑川聖司『晴れた日は図書館へいこう』
仲町六絵『からくさ図書館来客簿』
夏目漱石「入社の辞」
有川浩図書館戦争」シリーズ
ジャネット・ウィンター『バスラの図書館員』
J・L・ボルヘス「バベルの図書館」
村上春樹世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド
田岡嶺雲「数奇伝」
新田潤「永遠の求愛者」

また、作品中・解説中に出てくる図書館についてもリストアップしてみました。こんな感じ。

独逸式図書館vs米国式図書館(朔太郎)、上野の帝国図書館(一葉、宮本百合子菊池寛芥川龍之介)、哈爾浜鉄路図書館・満鉄哈爾浜図書館・スンガリー市図書館・東支鉄道クラブ図書館・東支鉄道中央図書館(竹内正一と解説)、東京帝国大学図書館(芥川龍之介夏目漱石、澁川驍)、東京市京橋図書館(新田潤)、国立国会図書館および国立上野図書館附属図書館員養成所、紅葉山文庫中野重治)、フランス国立図書館および同国立高等図書館学校(小林宏)、第二高等学校図書室(富永太郎)、Real Gabinete Portugues de Leitura ポルトガル王室読書室、文部省博物局書籍館(東京)、集書院(京都)、大橋図書館第一高等学校図書館、第二高等学校図書館、第五高等学校図書館、盛岡中学校図書庫、コロンビア大学図書館、米国日系人強制収容所内の図書室、バスラの図書館、東京都立日比谷図書館

この他、さまざまな実在しない幻想の図書館もたくさん出てきます。

   *

J・L・ボルヘスは言いました。

「断言してもいいが、図書館は無限である。」(「バベルの図書館」より)

ようこそ、果てしない「図書館文学」の世界へ。

【pixiv論文】日本文学研究者が引用について語ってみる

立命館のpixiv論文の件を遠巻きに見ていたのですが、日本文学研究の方にも飛び火してきた感じなので↓


togetter.com

ちょっと考えたことを書いておきます。

目次はこんな感じになりました。長いですので、これからどうすべき(と私が考える)か単に知りたい人は、「さいごに」をどうぞ。

近代文学研究における引用の実態

近代文学研究の世界では、引用に際して作者の許諾をとるということは、例外的な場合を除いて、一切ありません。著作権法の範囲内で、遠慮なくどんどんやります。

近代文学研究が扱う文学作品は、ほとんどが「公開モード」にあります。だれでも見られ、引用、言及でき、賞賛も批判もなんの遠慮もいりません。

例外的な場合というのは、作家の遺族や、個人が所蔵する原稿や手紙などを使わせてもらう場合です。これは、勝手にやりません。

古典文学研究における引用の実態

古典文学作品の場合、死後50年以上経過していますので、著作者の権利は消えています。では、引用し放題かというと、そうではありません。こちらの世界の方が、むしろ厳しい。

一般に公刊されている(つまり近代に入って以降に出版物として刊行され直している)ものについては、引用オーケーです。許諾もいりません。

一方、古典文学や近代以前の歴史研究の場合、社寺や文庫、個人が所有している資料がけっこうあります。これらは、所蔵者と掛け合って、見せてもらわねばなりません。引用や言及に当たっては、もちろん許諾がいります。下手をすると、お金を払います。

これらの資料は「財産」だと考えられているからです。

※ この項については、古典文学研究者の知人からアドバイスをもらっています。感謝。

ネット掲載の「半公開」小説の引用

問題のpixivの小説のような、ネット上にあって、閲覧資格を制御することによって、公開のあり方に制限がかかっている、そういう状態をここでは「半公開モード」と呼んでおきます。資格を変えることにより、多くの人が読めるようにもなるので、「半公開」です。

これを引用するのには、私は配慮が必要だと考えています。

(注・私は今回問題になっている論文が、小説を一般的な意味で「引用」しているのかどうか、確信がありませんが、とりあえずそうだとして、この論文に必ずしも限定されない問題として考えるというスタンスで先に進めます。ちなみに転載はしてないですよね、pixivさん? →公式
Twitter

古典文学作品の場合、問題になっていたのは、「財産所有」の感覚ですが、ここで問題になっているのは羞恥心のようです。とするとこれは、プライバシーの問題です。

ここには、「文学」をめぐる文化的生態系の変化にかかわる、面白く、大切な問題があります。ちょっと迂回します。

小説とプライバシー

小説とプライバシーの間の衝突についていうと、これまでは小説(家)がプライバシー侵害で訴えられてきたという歴史があります。三島由紀夫の「宴のあと」や柳美里の「石に泳ぐ魚」の裁判が著名です。

それに対して、今回は、研究者による小説家へのプライバシー侵害が問題化されるという状況です。とても現代的な状況だと私は思います。

背景にあるのは、個人情報保護と犯罪被害者保護の感覚の鋭敏化で、小説家のもつ表現の自由はどんどんと劣勢に立たされて行っている状況です。これは、柳美里の「石に泳ぐ魚」裁判のあたり、つまり1990年代ぐらいから顕著になっている傾向だと思っています(詳細は拙論参照)。
http://dspace.lib.kanazawa-u.ac.jp/dspace/handle/2297/17449?mode=full

従来、加害者=小説(家)/被害者=小説のモデル、という図式でしたが、今回は反対に、加害者=研究(者)/被害者=小説(家)となっています。面白いなとは思いますが、要素が入れ替わっているだけで、図式は同じです。

理屈としては両方にそれぞれ理があるが、プライバシーを晒されて被害を受ける方に、けっこう同情が集まるというパターンです。

さて、近代文学研究者のお仕事の一つに、辞典の項目執筆というのがあります。文字数によりますが、徹底的にその作家のことを調べ上げます。昔は、戸籍謄本から、在籍学校の成績まで、(有名作家の場合ですが)調べてました。

直感的にわかるとおり、これらは、現代人にとって、完全にアウトな作業です。まさに個人情報そのものを集めて公開しようというのですから。

私は某マイナー作家のことを調べたことがあります。ある私立大学に「その作家が在籍していたかどうか。していたならどの期間か」を調べたい、と打診しましたが、「ご遺族ですか」と言われ「研究者です」と返したら、「申し訳ありません」と丁寧に謝絶されました。その大学は文学者もたくさん輩出してきた有名研究大学ですが、そこでさえ、こんな感じです。

もう昔のような作家の本当に細かな履歴が書いてある辞典は作れない、というのが大方の一致した研究者の見方と思います。

とまあ、たとえばこんな感じで、プライバシーをめぐる文学の文化生態系は変わってきています。われわれは、今その中にいます。柳美里以降、ソーシャルメディアの時代を迎えて、生態系はさらに変化をしているようです。

これからどう現代小説を引用していくのか

私見です。公開されたプロの作家の作品や、図書館や地域の文化施設に寄贈されている同人誌に載っている小説、詩については、著作権法の許す範囲でがんがん引用して、誉めるなりdisるなりすればよいと思います。

これらの「公開モード」の作家およびその作品は、「近代」的な文学生態系のなかにいると想定されるので、仮にさらし上げてもほぼ大丈夫のはずです。そのかわり、反撃が飛んできますから、やる側にも覚悟が必要です。

一方、今回のpixivのアマチュア小説のような「半公開モード」の作品の場合は、古典文学研究がやっているような、配慮をする必要があります。それは法律論とは別のところにある、「ものごとをうまくまわすための配慮」の領域の問題です。

さいごに : 忖度と萎縮と検閲と

法律の範囲内なら、どんどんやればいいじゃないか!という意見もあると思います。そんな配慮より、学問の自由だ!的な。

私も数年前までは血の気が多かったので、そういう感覚に近かったですが、最近ようやく大人になってきました(笑)

法律でもなんでも、原則論の一本槍でいくと、結局総合的にみてうまくいきません。

松谷創一郎さんも言っていらっしゃいますが(https://news.yahoo.co.jp/byline/soichiromatsutani/20170527-00071377/)、今回、この炎上事件の結果、研究も萎縮し、書き手も萎縮し、大学は倫理規定を厳しくし、サービス運営会社はガードを固くして使い勝手を悪くする可能性があります。最悪です。

とりあえず、みんないったん、振り上げた拳を、ガードの盾を、降ろした方がいい。誰も得しない。私たちの現代文化(含む文学、含む研究、含むWebサービス)がますます窮屈になる一方です。

忖度も、萎縮も、過度の相互監視も、やめよう。

最後にいいたいのは、この立命館大の研究は、フィルタリングの自動化の研究ですよね?(読めていないので、間違っていたら、指摘してください)
これは、言い方を変えると、機械による自動検閲(につながる)装置の開発です。

「有害」な情報から未成年者を守るというような目的があるのはわかります。

しかし、検閲による情報の規制が、私たちの社会の風通しを悪くしたり、知りたいことを知れなくなったり、議論の分かれる問題について、その問題となる原因の資料そのものへのアクセスを遮断することにつながる、という自覚を、この手の研究開発をしている人々には持ってほしいと思います。

技術として可能性を追求するのはいいけれど、それを社会に適応したとき、社会の中で振るってしまう力、効果などについて、思いをいたしてほしい。

私はこの文章を書くために、元論文を読みたかったのですが、それがいまできなくなっています。「有害」だというその小説が本当に有害なのかどうかも、確かめたい。しかしそれもできなくなった。

議論のために情報の公開性が保たれなければならないというのは、たとえばこういうことなのです。

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私も、支援しました。
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最近いただいた本 20170509

つづきです。御礼状を書かねば。GWに、と思っていたのですが、矢のように飛び去り…。
不義理すぎて顔向けできない。うう。

それにしても、大著揃いだ。すごい!


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