日比嘉高研究室

近況、研究の紹介、考えたこと

最近いただいた本・雑誌 20170508

遅くなりましたが、最近いただいた本を紹介いたします。
全部にコメントをしたいのですが、追いつきません。ごめんなさい。上から順にやっていまして(部分的にはTwitterで紹介してました)、このあと、追記していきたいと思っています。全部やってから、と思ったんですが、それだと公開がいつになるかわからないので(^^;)

まだあります。その2をアップします。




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野網さんより頂戴しました。漱石の「明暗」に出てくる漢籍『明詩別裁』や呉梅村の詩などを基軸に、作品の世界を読み広げていく試み。大作家・漱石が想定していたはずの高度な読者(=漱石自身と野網さんは仮定する)なら、作品をどこまで押しひろげて読んだだろうか、それを追求してみようと序文は言います。「漱石」というのか、「読者」というのか、はたまた「テクスト」というのか、あるいは「インターテクスト」や「注釈」というのか、立場によって違うでしょう。けれど、こういう緻密で複雑な、言葉と言葉のからみあい、呼び合いを解きほぐしていくのが、文学研究の醍醐味の一つであるのは確かでしょう。

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大東和重さんより頂戴しました。
航路から読み直す文学と思想の歴史。とても面白い。海の発想は陸とは違う。それは国境により区切る思考ではなく、つないで覆う思考。航路はそこに人間が打ち立てた道標──航跡。橋本順光氏による「はじめに」「序章」は、幸田露伴の「海と日本文学と」を起点に、この領域/海域を概観しようとする充実した記述となっている。
どの章も面白いが、注の付け方がちょっと気になる論考もいくつかある。一次文献には詳細な注が付いているが、二次文献への言及が極端に少ないか、ほとんどない(ちゃんと付けている章もある)。私はこういう書き方はフェアではないと思う。


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西田谷洋さんより頂戴しました。
ここしばらく続けていらっしゃる、ゼミの学生たちと国語教科書教材・作家を読む試みの一つ。あまんきみこでは2冊目になります。それぞれの論考は短いものですが、作品を読むためのキーワード──「空間構造」「変身」「比喩」「時空間の縮減」「外部記憶としての異空間」などが多数ちりばめられており、今後作品に向き合う読者の手がかりとなることでしょう。

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上田敏「うづまき」注釈
監修 木股知史

論樹 28号

リテラシー史研究 10号

繍 29号

アメリカ文学評論 Review of American Literature 25号

ミサイルが飛んで、新しい隣組の結成を祝おう

今日(29日)はアニメ・特撮脚本家で小説家の辻真先さんの講演を聞いた。いい講演だった。心から御礼を申し上げたい。

講演の題を「ぼくは戦争の匂いを嗅いだ」とした辻さんの危機感は深いのだと思うが、語り口は温和かつなめらかで、まるで落語か講談を聞いているようなおかしみもあった。

辻さんは、聴衆の大多数が反安保、反安倍の人々だということを十分に理解し、意識しており(講演は「名大アゴラ」という安保法制に反対する会の主催だった)、それゆえに「大声で反対したってだめだよ。だれも聞きやしない」という趣旨のことを繰り返し言っておられた。

「たとえばみんなが「反対」というなかで「反対」っていったってだれも聞きやしない。「反対」の中で「賛成」っていうから、みんな話を聞くんだ。「賛成」の中にちょっと「反対」を混ぜるとかね、そうすればいい。」(大意)


「私はずっと子ども向けのアニメを作ったり、SF小説を書いたりしてきた。そういうなかで工夫をしていた。009の「太平洋の亡霊」なんかはそうやって作ったつもりです」(大意)


「戦争は怖いものだと思っているかもしれないけど、そうじゃないよ、多くの人にとって戦争は楽しいものだったんだ。だって日本は日清日露以来ずっと戦勝国だったんだ。」(大意)


「昭和15年頃まではね、けっこう賛成派・反対派が押したり引いたりしていた。そのあとはどどどっといったけどね。今は昭和15年ぐらいと似ているね」(大意)


「本当に怖いのはね、「いい人」なんだよ。善人が怖い。善人は自分がいいことをしているってことを疑わないからね」(大意)


「本当にはじまっちまうと何も言えなくなるからね、言える今のうちに言えることは言った方がいいと思って、私は言ってます。」(大意)

全部「大意」です。私が私の都合のいいように聞き間違いをしているかもしれない。IWJが録音していましたので、いまに放送されるかもしれません。正確なご発言はそちらで。名大アゴラでもまた案内します。

テレビのニュースでは「ミサイル」「ミサイル」ずっと言っていた日だった。東京のメトロは止まったそうだ。それが実際のところ、市民にどれだけの恐怖を与えるのか、メトロの中の人は考えたことはあるまい。

いや、むしろ「乗客の安全」を優先させたのだ、というのだろう。実際に迫った危険はさておいて、万が一のための乗客の安全を考え、そして自分たちの保身を考え、念のために、列車を止める。

災害を避けるためには、必要なことだろう。避難訓練の訓示でも、この前の雪崩の事故でも、専門家やメディアは常に同じことをいい、私たちの社会は万が一のために「安全策」をとることをよしとしてきた。

私も、それでいいと思ってきた。

しかし、今回はっきりしたのは、対外的な「危機」に際してこれを行うと、明確な国民への恫喝になるということである。万が一への安全の配慮が、むしろ国民を戦時体制へと押し流していくという逆説。私たちの来たるべき今度の戦争は、綿密な安心安全への配慮の網の目の、まさに真っ只中に現れるのかもしれない。

ミサイルが飛んでくるかもしれないので、念のために逃げましょう。念のためにシェルター買いましょう。念のために下校しましょう。念のために、念のために、万が一に備えて、一応、そうしましょう。

そうして気がつくと、戦争は私たちの生活の一部になる。私たちは戦時体制の中の人になる。

とんとんとんかららっと、となりぐみ。そうだ。先の戦争の隣組も、きっと助け合いの、頼りになる組織だったに違いない。そうして私たちのじいちゃんばあちゃんは、助け合って監視しあって、力一杯まごごろこめて戦争に献身したのだ。

ナチスゲーリングは言ったという。戦争を始めるのは簡単だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない、と。

今日、会場で出た二つ目の質問は、「北朝鮮はもう事実上の宣戦布告をしているんですよ!」(大意)という、危機感に満ちあふれた「善意の方」からの質問だった。たしか以前も別の「善意の方」が、「名大は平和ぼけだ(怒)」(大意)とお叱りなさっていった。

大臣たちは外遊。国民はミサイルで脅されて、いやな感じのなかでGWを楽しもうとしている。5歳の息子はレゴブロックで戦艦を作っていた。

私たちの新しい隣組の結成は、案外近いかもしれない。
開始の号令は、まずはミサイルよけの避難訓練からだ。

台北雑記20170426――花蓮の本屋、煙草工場、青田街、植民地ノスタルジー

24日から4日間の日程で、台北に来ている。f:id:hibi2007:20170426182344j:plain:w300:right
政治大学と東呉大学の先生が招いて下さり、講演をさせてもらったのである。お題は、戦前の内地外地を結んだ書物の流通について、という目下私が追いかけているテーマである。台湾について、少し力点をおいて話をしてきた。

講演と講演の間の時間に、人に出会ったり、いくつか場所を訪問したりしたので、備忘を兼ねてメモしておこう。

1.花蓮の本屋さんがらみ

講演の会場に、社会人学生の方が聴講に来て下さっていた。社会人学生といっても、御年84歳。日本語世代である。

この方、花蓮のお生まれの方だったが、ご自宅の倉庫を本屋さんに店舗として貸していたという、私のような研究をしているものにとっては、おいそれと出会えない経歴の持ち主であった。もちろん、記憶のあるその当時でもこの方は小学生だったので、書店の詳しい商売のことをご存じのわけではない。しかし、あまり詳しくは書かないが、いろいろとその現場ならではの細部が聞けて、興味深いことであった。

2.松山文創園区あるいは松山煙草工場

f:id:hibi2007:20170424184047j:plain:w300:leftまた別の人と会うときに、待ち合わせの場所として、松山文創園区が指定された。どんなところかと思って調べてみると、旧煙草工場であった。台湾総督府時代の専売局の工場であり、戦後はそのまま台湾が引き継いだ。いまは、美術館やカフェ、個人制作の小物などを売る店が集まって、まさに“文化創造空間”となっている。

f:id:hibi2007:20170424185540j:plain:w100:right真横には、巨大なドーム競技場が建設中だ。緑と池を抱えた公園、旧煙草工場、現代的なデパートとホテル、そして建築中のドームがぐるりと見渡せるここは、なんだか台湾の過去と現在を一気に圧縮してみられるような、そんな気分にさせられる場所だ。
www.taipeinavi.com

3.青田街あるいは昭和町

f:id:hibi2007:20170426181006j:plain:w300:rightW老師に教えてもらって、講演のあと、青田街に行ってきた。ここはかつて昭和町と呼ばれた一角で、台北帝国大学の教員宿舎が集まっていた。いまは、残された何軒かがリノベーションされて、レストランや茶館、展示スペースなどになっている。統治時代の高級官舎がどんなだったのかがうかがえる、面白い場所である。

solomo.xinmedia.com

www.lib.ntu.edu.tw


そういえば、台湾の書店がらみで、この前別の方のお話も聞いたのであった。その方は、日本人だが京城生まれ、台北育ち、そしてお父様が台北帝大の教員だった。官舎にいたと言っていたので、それはもしや青田街のことだったのではないか、といま思い当たる。地図を見ながら話を聞いたが、そういえばこのあたりを指さしていたと思う。つながるものだ。

青田街は、津島佑子『あまりに野蛮な』が材料を取っているという話も聞いた。
太過野蠻的(あまりに野蛮な) « 臺灣原住民族圖書資訊中心部落格


4.植民地ノスタルジーあるいは――

毎回、旧外地がらみの調査・研究・報告・講演などで旧植民地や旧租界、旧租借地などに行くと、私は煩悶する。このブログでも何回がグジグジ書いている気もする。私は帝国日本およびその植民地の文化の研究をしており、批判的にかつての帝国の悪行を見たり、それが残した多面的な「遺産」のあり方を考えたりしようとしている。

が、一方で、私は素朴なレベルで植民地時代の遺物(土地、建物、文物など)を見るのが好きである。

魅かれると同時に、魅かれる自分にさもしさを感じずにいられない。帝国の文化、植民地の文化について話すとき、いまだに自分がどのような姿勢で話せば良いのか、うまくバランスが取れない。聞き手が日本人の時、台湾人の時、韓国人の時、中国人の時、私は、日本人の私は、日本語で話す私は、どのような顔でどのような姿勢で話せばいいのか、いまだにわからない。

一方、台湾の都市に顕著だが、韓国でも中国でも、戦前の日本関係の建物をリノベーションしたり、そのまま手を入れたりして、観光資源にする例にしばしば出会う。青田街へも、煙草工場へも、流行に敏感そうな10代、20代ぐらいの台湾の人(多くは女性)たちが訪れていた。おしゃれに改装されたレトロな雰囲気の建物は、現代の感性に訴えるものがある。自分でもそれは肌で感じる。

この、居心地の悪い感情や状況を、私はここ数年、個人的用語として「植民地ノスタルジー」とか「ポストコロニアル・ノスタルジー」などと勝手に呼んでいる。

(いまふと検索してみたが、同じような用語・関心で論文を書いている人はやはりいるようだ。まだabstractしか読んでいないが)
Engaging Colonial Nostalgia — Cultural Anthropology


支配側と被支配側の双方で同時に見られる――がしかし対称ではない――これらの感情や行動は、郷愁であると同時に郷愁の形からはみ出る何かである。観光化であると同時に観光を超えた何かである。魅力的であり同時に醜悪でもある。植民地の遺物をめぐって旧支配側と旧被支配側が出会う場であり、同時にまたすれ違う場でもある。

いつか、この入りくんだ感情と状況について、もう少し具体的に論じてみたいと思っている。

追記:

なお、私のような頭でっかちの人間にとって、「現地」に行くということはとても大事である。

いま、台湾でも韓国でも資料のデジタル化が急速に進んでいる。日本にいても、しかるべきユーザー登録をしていたりすれば、けっこう資料が見られたりする。中国の戦前の日本関係資料はいま現地ではぜんぜん見せてもらえないので、日本で調べた方が資料的には多い。日本にいながらにして植民地文化研究はできてしまう。

しかしそれでも私は、現地にいくべきであると思う。現地に資料がなく、現地の文物が消え失せていたとしても。

なぜなら、植民地文化を考える者たち(何人であっても)は「現地の現在」に出会うべきだからである。そこには植民地帝国の影響が残存していたり、まったくそれとは関係のない生活や思考が営まれていたりする。そうした「現在」に接触しないで、自分のいる国内だけで思考や作業を行っていると、出会うべき対話の相手の姿を見失ったり見誤ったりすることになる。

そして出来得るならば、現地語をたとえ少しでも知った方がいい。なかなかハードルは高く、私もぜんぜん進歩しないわけだが…。

昨年度はサバティカルだった件

昨年度はサバティカル(=大学の特別研修期間)だった。
諸事情(主に家庭方面)あって、勤務校での研修となった。そして勤務校には子どもの保育園があるので、結果、ほぼ毎日大学に行くことになった。

春、私を見かけた同僚たちは、なぜサバティカルなのにいるのか、という顔をした。

夏、同僚たちはいなくなったが、私は大学にいた。

秋、誰も私が学内にいることについて、不思議と思わなくなった。

冬、どうしておまえは教授会に来ないのだ、とさえ思われている気がした。

いろいろ言いたいことはあるし、最終日に吐き出してやろうと思っていたけれど、やめた。

もらえただけで十分だ。そして俺は働いて、元気だ。血圧はちょっと上がり気味だが。

以前勤務していた大学で英語科の先生に、サバティカルsabbaticalはサバスsabbathから来ている言葉で、つまりはユダヤ教キリスト教の「安息日sabbath」の発想なのだ、と教えてもらった。つまり、カミサマは6日働いて、1日休んだ。そういうカウントのしかたで、6年働いて1年休むのが、大学の研究休暇のSabbaticalである、と。

聖書の「創世記」を読み直してみた。安息日は、第2章の冒頭にあった。6日働いて1日休むのが1サイクルではないのだ。sabbathは新しい章の始まり。であるならば、sabbaticalもまたそうであろう。

今年度は、私の第2章の2年目である。
カミサマは人をここからエデンに住まわせた。
私の現在地がエデンとは到底思えず、むしろどうみても修羅道にしか見えないが、とりあえずここからまた始まる。

オリンピックと帝国のマイノリティ──田中英光「オリンポスの果実」の描く移民地・植民地

細川周平編『日系文化を編み直す──歴史・文芸・接触』ミネルヴァ書房、2017年3月31日所収、pp.287-300


[要旨]

 この研究では、1932年のロサンゼルス・オリンピックと、それを描いた田中英光オリンポスの果実」(1940)を分析しながら、1930年代における国際スポーツ・イベントが、いかなる〈接触領域〉として機能したのかを考えた。
 まず、近代オリンピックおよびロサンゼルス・オリンピックの概略を整理し、オリンピックの理念が抱えていた理想と矛盾とを指摘した。また、1932年に米国太平洋岸で開催されたオリンピックが、日本人、日系移民、被植民地人(ここでは大日本帝国支配下の朝鮮半島の例を見る)にとって、それぞれどのような意味を持っていたのかについても考察する。
 その上で田中英光のテクスト「オリンポスの果実」の分析に進む。要点としては、(a)「オリンポスの果実」が背景的な描写として書き込んだ「在留邦人」のようす、(b)テクストが描いた周縁的存在=オリンピックの光が照らしだした帝国の周縁部、(c) 田中英光のテクストがもつ、〈脱-焦点化〉という特徴、の3点を論じる。
 以上の考察によって、1932年のロサンゼルス・オリンピックが照らし出した、日本内地、米国移民地、植民地朝鮮との接触・衝突のありさまを浮かび上がらせる。

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外地書店を追いかける(8)──大阪、九州、台湾の共同販売所と大阪屋号書店満鮮卸部

「外地書店を追いかける(8)──大阪、九州、台湾の共同販売所と大阪屋号書店満鮮卸部」『文献継承』金沢文圃閣、30号、2017年5月、pp.11-15。

第8回、書きました。今回は戦前の内地/外地をまたいで起こった「共同販売」という、書物の流通改革のお話です。

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枝垂れ桜、春に向かう

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毎年楽しみにしている、近所の枝垂れ桜。今はこれくらい。

例年だと22日、23日ぐらいでこの桜は満開を迎えます。このあとの天候次第ですが、今年はこれと同じか、少し遅れるか、ですね。

いずれにしても、これから一週間で、満開に向かって駆け上がります。
そしてこの枝垂れ桜が散り始めると、街中の染井吉野が咲き始めます。
そうすると、もうカレンダーは変わって、新学期。

春は、駆け足です。

子どもの通う保育園でも、今日は卒園式。息子も来年は最上級生になります。小学校まで、あと一年。