日比嘉高研究室

近況、研究の紹介、考えたこと

オリンピックと帝国のマイノリティ──田中英光「オリンポスの果実」の描く移民地・植民地

細川周平編『日系文化を編み直す──歴史・文芸・接触』ミネルヴァ書房、2017年3月31日所収、pp.287-300


[要旨]

 この研究では、1932年のロサンゼルス・オリンピックと、それを描いた田中英光オリンポスの果実」(1940)を分析しながら、1930年代における国際スポーツ・イベントが、いかなる〈接触領域〉として機能したのかを考えた。
 まず、近代オリンピックおよびロサンゼルス・オリンピックの概略を整理し、オリンピックの理念が抱えていた理想と矛盾とを指摘した。また、1932年に米国太平洋岸で開催されたオリンピックが、日本人、日系移民、被植民地人(ここでは大日本帝国支配下の朝鮮半島の例を見る)にとって、それぞれどのような意味を持っていたのかについても考察する。
 その上で田中英光のテクスト「オリンポスの果実」の分析に進む。要点としては、(a)「オリンポスの果実」が背景的な描写として書き込んだ「在留邦人」のようす、(b)テクストが描いた周縁的存在=オリンピックの光が照らしだした帝国の周縁部、(c) 田中英光のテクストがもつ、〈脱-焦点化〉という特徴、の3点を論じる。
 以上の考察によって、1932年のロサンゼルス・オリンピックが照らし出した、日本内地、米国移民地、植民地朝鮮との接触・衝突のありさまを浮かび上がらせる。

www.kinokuniya.co.jp

外地書店を追いかける(8)──大阪、九州、台湾の共同販売所と大阪屋号書店満鮮卸部

「外地書店を追いかける(8)──大阪、九州、台湾の共同販売所と大阪屋号書店満鮮卸部」『文献継承』金沢文圃閣、30号、2017年5月、pp.11-15。

第8回、書きました。今回は戦前の内地/外地をまたいで起こった「共同販売」という、書物の流通改革のお話です。

f:id:hibi2007:20170329232151j:plain

枝垂れ桜、春に向かう

f:id:hibi2007:20170317162745j:plainf:id:hibi2007:20170317163308j:plain

毎年楽しみにしている、近所の枝垂れ桜。今はこれくらい。

例年だと22日、23日ぐらいでこの桜は満開を迎えます。このあとの天候次第ですが、今年はこれと同じか、少し遅れるか、ですね。

いずれにしても、これから一週間で、満開に向かって駆け上がります。
そしてこの枝垂れ桜が散り始めると、街中の染井吉野が咲き始めます。
そうすると、もうカレンダーは変わって、新学期。

春は、駆け足です。

子どもの通う保育園でも、今日は卒園式。息子も来年は最上級生になります。小学校まで、あと一年。

畝部俊也さんの思い出に

今日は、亡くなった同僚の畝部俊也さんを偲ぶ会があった。研究科の有志が集まって、食事をしながらいろいろな思い出話をした。畝部さんは48歳で亡くなったのだった。

畝部さんとは、研究室が隣同士だった。音が、よく聞こえた。私の研究室のある建物の部屋は、音が聞こえる方の壁と、聞こえない方の壁がある。建物の構造をなしている分厚い壁と、仕切りのための簡易な壁の違いだろう。畝部さんの部屋と私の部屋との壁は、仕切りのため、音がよく通る方の壁だった。

話の内容までは聞こえないが、談笑しているようすや、電話の応対をしているようすは伝わった。私が同じようにしている声も、きっと畝部さんに聞こえていたことだろう。

いま、その声は聞こえない。物音も聞こえない。死とは、そういうものだ。

死は穴ぼこのように私たちの日常の只中に現れる。これまであったはずのところに、あったはずのものが、ない。あったはずの音がせず、あったはずの人がいない。

ない、いない、というとても単純なこの出来事に、私たちは慣れることができない。この欠落は、人生に何度訪れても、いつも慣れることがない。

インドの言語哲学などが専門だった畝部さんの研究については、私は語ることができない。私にとっての畝部さんは、穏やかな隣室の先輩であり、歳の近い同僚であり、いくつかの委員会を一緒に担った仲間だった。それだけにすぎない、ともいえる。そうした私のような比較的小さな穴ぼこから、生活と人生のほとんどを覆ってしまうかのような大きな穴ぼこに向き合うことになった人まで、さまざまな欠落を残して、畝部さんはいなくなった。

研究室で本を読んでいるふとした時に、隣室の静けさに思い当たる。メールを書くその合間に、物音がしたような気がして、彼はもういないと思い返す。

今日の偲ぶ会で、畝部さんの同僚でやはりインド思想の研究者でもある和田壽弘先生が、スピーチでこんなことを言っていた。浄土へ行くと言うけれど、最近はあまりこういう言い方は一般の心に響かないかもしれない。代わりに、たとえばこう表現してみたらどうだろうか、《彼は永遠の時間の流れの中に溶け込んでいったのだ》、と。千年単位で文化を見ている碩学の言うことは、やはりすごい。

時間はだれのところにも隔たりなく流れてきて、分け隔てをすることがない。過去のあらゆる人のもとでもそれは流れていて、未来のあらゆる人のもとでもやはり流れ続けている。死が、その滔々と流れる圧倒的な時間の大きさの中に《溶け込んでいく》ことであるとするならば、私たちは死者の行方を案ずることなく、そして残された私たちの行く末をも思い煩うことなく、ただそのすべてを飲み込んで流れ続ける大河の中にすべてを委ねていけばいいということになろう。それはなんという安心だろうか。

一方でふと、こうも思う。私たちが、とりわけなにかを創り出そうという私たちがもがくのは、その一切合切を飲み込む流れの中になんとか棹さして、自分がそこにいたということや、自分がその流れに何ものかをつけ加えたということを、言い張りたいがためではないだろうかと。

私は畝部さんが、どんなつもりで研究に取り組んでいたのか話したことはない。千数百年以上前のサンスクリット語を読みながら、それを今この時代に語り直していく作業に、彼はどんな価値や歓びを見い出していたのだろう。千年を超えてつらなる言語と思想の今いちばんこちら側の端に、そしてこれからも千年単位で受け継がれていくだろう文化の相続の中に、自分を置き、そこでなにごとかをなしたいと思っていたのではなかったか。聞いてみたかった気がするし、聞いても「そんな大したことは考えていないですよ」と、はにかんで笑って済まされるだけだった気もする。

流れ続ける時間の中に、死者への思いを放つことは、おだやかな安心をわたしたちにもたらす。ただ一方、わずかであってもその流れの中に小さな小さな杭を、流れていかない杭を立ててみたいと思うのも、やはり人の心に沿った考え方なのかもしれない。

静まりかえった壁の向こうのことを思いながら、私もほんの少しだけ、畝部俊也さんのことをここに書き残して、流れ去っていくものに抗っておきたい。

文科省的には教育勅語を活用してもいいらしい

文科省予算委員会で、教育勅語を活用してもいいと答弁している。

夫婦仲良くしなさい、とか、友だち同士信じ合いなさい、ということを教えるのに、教育勅語が必要なのか、と考えてみればわかる。それくらいのことなら、ちびまる子ちゃんをつかってだって教えられる。教育勅語を使いたい人々は、夫婦仲とか友だち関係とかを向上させたくて、これを使うんじゃないんだよ。

文科省は、用意してきた答弁で言ってるから、でまかせじゃない。
政治家じゃなくて、役人がこういうことを言うのって、ほんとに肝が冷えていく気がする。

教員関係の人は、「本省」がこうなってること、覚えておいた方がいい。

藤江〔陽子〕政府参考人文部科学省

教育勅語につきましては、明治二十三年以来およそ半世紀にわたって我が国の教育の基本理念とされてきたものでございますけれども、戦後の諸改革の中で、教育勅語を我が国の教育の唯一の根本理念として扱うことなどが禁止され、これにかわって教育基本法が制定されたところでございます。
こうしたことも踏まえまして、教育勅語を我が国の教育の唯一の根本理念として戦前のような形で学校教育に取り入れ指導するということであれば適当ではないというふうに考えますが、一方で、教育勅語の内容の中には、先ほど御指摘もありましたけれども、夫婦相和し、あるいは、朋友相信じなど、今日でも通用するような普遍的な内容も含まれているところでございまして、こうした内容に着目して適切な配慮のもとに活用していくことは差し支えないものと考えております。

http://www.kiyomi.gr.jp/info/10841/

排除型社会とマイノリティー 現代文学はどう向き合っているのか(研究報告)

土曜日、韓国日本学会(@高麗大学、2017年2月18日、第94回国際学術大会)に行って参ります。
私の出番は日本文学分科2。

マイノリティーと文学・文化-ジェンダー・身體

1武内佳代(日本大)
松浦理英子『犬身』におけるジェンダーの錯綜―クィア化される「ケアの倫理」

2 金孝眞(서울大)
女性向けメディアとしてのティーンズ・ラブ(TL)の分析:漫画作品の事例を中心に

3 日比嘉高(名古屋大)
排除型社会とマイノリティー-現代文学はどう向き合っているのか

http://www.kaja.or.kr/modules/bbs/index.php?code=notice&mode=view&id=87&___M_ID=80

政治の嘘にさらされ続けるとどうなるのか――トランプ、ガス燈、もう一つの事実

政治の嘘に人々が慣れてしまうとどうなるのか。「オルタナティブ・ファクト」「ガスライティング」など、ここのところ注目されている言葉とともに考えます。

目次

トランプ氏の嘘は続く

人は嘘にさらされ続けると、どうなるのでしょうか。サンタクロースがプレゼントを持ってきたとか、節分には鬼が来るとかそういう嘘なら、たわいもないものです。しかし、たしかにあったはずのものがないとされたり、明らかな数字の水増しを臆面もなく主張したりすることが、公の世界で次々と続けられる。しかも、社会的な権力を持つ者が、その権力の場において、そうしたあからさまな嘘を言い続けるとしたら、どうなるでしょうか。権力の嘘にさらされ続けた人びとは、一体どのような状態に陥ってしまうのでしょうか。

選挙運動中から不確かな情報や、明白に事実と反する主張を行ってきたドナルド・トランプ氏は、第45代アメリカ合衆国大統領になってからも、同じような言動を続けています。

そして大統領就任式の後、現代世界を語るための興味深い言葉がまた一つ生まれました。「オルタナティブ・ファクト alternative facts」、日本語では「もう一つの事実」「代替的事実」などと訳されています。

簡単にこの言葉の輪郭を説明しますと、次のようになります。ドナルド・トランプ大統領の就任式の後の1月21日、ショーン・スパイサー大統領報道官が「就任式に集まった人数は史上最大だった」と発言します。これが事実とは異なると批判を受け、翌22日に顧問ケリーアン・コンウェイ氏が、NBCテレビへの出演時に、嘘というわけではなく、我々は「オルタナティブ・ファクト alternative facts」を伝えたのだと述べました。
www.huffingtonpost.jp



オルタナティブ」には、もう一つの、これではない別の、という意味があります。つまりコンウェイ氏は、あなたたちが「事実」だと思っているものとは異なる「別の事実」があり、私たちはそのことを言っている、と主張したわけです。

この発言は波紋を広げ、メディアのコラムがこぞって取り上げたり、Twitterで #alternativefacts のタグを用いて数多くの投稿がなされたりしています。作家のアーシュラ・K.ル=グイン氏(『ゲド戦記』の作者)が、政治家のいう「オルタナティブ・ファクト」とSF作家の創造物とを比べるような考えに対して、作家の作り出すフィクションは「オルタナティブ・ファクト」ではないという批判の公開書簡を出したりもしています。(原文)(日本語の紹介記事

ポスト真実とオルタナティブ・ファクト

前提にはもちろん、「ポスト真実」と呼ばれる風潮があります。このブログでも書きましたが、2016年のオックスフォード辞書が2016年に今年の言葉として選んだというニュースが、日本でも話題になりました。

「ポスト真実」という言葉にしても、「オルタナティブ・ファクト」という言葉にしても、背景にあるのは「真実」や「事実」というものについての意味的な分断が起こっている感覚でしょう。互いに異なる環境下にあり、信条も異にする人びとが、それぞれに異なる「真実」を抱えている。ある人にとって「真実」であっても、別の人にとっては「真実」ではない。そしてその複数ある「真実」は、互いにわかり合うことはないのではないか、という感覚です。

いや「真実 truth」が複数あるということならば、むしろそれは当たり前と思う人も多いかもしれません。「正しい真実」は立場の数だけある──当然といえば当然です。では、「事実 fact」が複数あるとなったらどうでしょうか。人がそれぞれ信じる「真実」ではなく、あるがままであるはずの――たとえば大統領就任式への参加者数のような――「事実」でさえ、複数の「事実」があると主張される世界。しかも、時の政権によって、「別の事実」があるとされる世界。

嘘の効果──ガスライティング

こうした現象は、繰り返される政治の嘘がどのような効果をもってしまうのか、私たちを考え込ませます。

一つの言葉に注目しましょう。トランプ政権の振る舞いを分析する記事の中で目にするようになった言葉に、「ガスライティング gaslighting」というものがあります。CNN, Teen Vogue, NBC, Washington Post などがそれぞれ記事を掲載しています。

ガスライティングは、人や集団を心理的に操作するための「技術」です。1944年にイングリッド・バーグマンが主演した《ガス燈》(原作は1939年の演劇。あらすじはこちら[allcinema])に由来する言葉で、心理学やカウンセリングの世界でもともと使われていたようです。映画は、主人公ポーラが夫から記憶の混乱や誤認などを繰り返し指摘され(実は夫が騙している)ることによって、自からの正気を疑うようになり、騙している夫を信じるようになっていく、という筋書きをもっています。ここから、繰り返し嘘をついたり騙したり、知覚や記憶を否定したりすることによって、対象とする人から正気を失わせて、操作できるようにすることを「ガスライティング」と呼ぶようになりました。



ワシントンポスト』の記事で、Caitlin Gibson氏は言います。

誰かを「ガスライトする」ということは、単にその人々に嘘をついたり、感情を操作したりするということではない。それは誰かを計画的に騙すことによって、彼ら自身の現実に対する知覚を疑わせるよう仕向けていくことなのである。

What we talk about when we talk about Donald Trump and ‘gaslighting’
Caitlin Gibson
January 27

https://www.washingtonpost.com/lifestyle/style/what-we-talk-about-when-we-talk-about-donald-trump-and-gaslighting/2017/01/27/b02e6de4-e330-11e6-ba11-63c4b4fb5a63_story.html?utm_term=.76f09b97427e


今、「ドナルド・トランプはアメリカをガスライトしている Donald Trump Is Gaslighting America | Teen Vogue」と言われるようになっています。嘘によって現実の知覚不全が始まってしまうのではないかと危惧されているのです。

もう一つ、Bloomberg Viewの記事も興味深いです。これは、内田樹さんが日本語に全文を訳しています(原文)(内田訳)。以下内田さんの訳をお借りします。

自分の部下に虚偽を言わせることによって、指導者は自分の部下たちの自立のための足場を-それは彼らと大衆との関係の足場でもあるし、あるいはメディアや他の政権メンバーとの関係の足場でもある-切り崩すことができる。足場を失った人々はリーダーへの依存を強め、命令機構に対して単身では抵抗できなくなる。

http://blog.tatsuru.com/2017/01/24_1954.php

もしあなたがある人があなたに対して真に忠誠心を抱いているかどうかを知りたいと思ったら、彼らに非常識なこと、愚劣なことを命じるといい。彼らがそれに抵抗したら、それは彼らがあなたに心服していないということであるし、いずれ支配者たちの派閥内部に疑惑を生み出す予兆でもある。

http://blog.tatsuru.com/2017/01/24_1954.php

嘘を強要されることによって、部下たちのボスへの依存度を深める、と記事はいいます。嘘はある種の踏み絵であり、と同時に、自己の判断能力の放棄であり支配者への依存の始まりである、と。

たしかに権力関係にあるボスに対して、もし部下が批判や異見をするとしたら、確実な根拠が必要でしょう。このとき、「事実」は有力な根拠になるはずですが、嘘は「事実」を無効にする効果を持ちます。部下は反論の手立てを失い、その組織の中にいつづけるためには、ボスに従うほかなくなるというわけです。

嘘が導くディストピア──オーウェル『1984年』

さて、嘘が現実を侵食していくこのような状況において、興味深いことに、ディストピア小説が売れ始めています。とくにジョージ・オーウェルの『1984年』が一時米国アマゾンのベストセラー1位になったことでニュースにもなりました。

www.jiji.com


オルタナティブ・ファクトをめぐる詳細な記事の中で、平和博さんも米国の記事を紹介しながら書いていますが(「1984年」と”オルタナティブ・ファクト”、トランプ新政権とディストピアのリアリティ | 新聞紙学的)、オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』(1932)、シンクレア・ルイスの『It Can't Happen Here』(1935)、などがベストセラーの10位以内に入ったりしたそうです。

重要なのは、これらディストピア小説の多くは、第二次世界大戦以前のナチス・ドイツやソビエトスターリン体制といった、全体主義的で管理主義的な統制国家への恐怖を背景にした、警告の書という一面を持っているということです(『すばらしい新世界』はどちらかといえば行きすぎた科学主義・資本主義の社会を描いていますが、やはりそれもディストピア的な管理社会です)。

とりわけ、『1984年』では、国を独裁支配する「党」が精神をコントロールする方略を駆使し、人びとを統制していくようすが詳細に描かれています。そのコアにあるのが嘘を真実と言い、真実を嘘と言うことを受け入れさせる「二重思考(ダブルシンク)」という方法です。

多くの新語法と同じく、この言葉は二つの矛盾し合う意味を持つ。敵に対して使用する時は、明々白々の事実に反して黒は白と心から言える事を意味する。然しそれは又、黒は白と信じ込む能力であり、更に黒は白だと認識する能力であり、そして其の反対をかつて信じていた事も忘れてしまう能力を意味する。これは過去を絶え間なく改変する事を求めることになり、それは自余の事を全て実際に取り込む思考方式により可能となるのだ。これが新語法で二重思考〔ルビ:ダブルシンク〕と呼ばれるものである。

ジョージ・オーウェル『1984年』新庄哲夫訳、ハヤカワ文庫、p.273(引用ページ数は2006年の47刷による)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)


『1984年』の世界で公用語とされる言語は「ニュースピーク」といい、歴史的な意味の破壊と、簡略化と、婉曲語法、科学の排除などによって成り立っています。言葉の支配が知の支配、過去の支配、科学の支配につながり、現在と未来の支配の永続につながる、という世界観です。

ハンナ・アーレントの論じる嘘と全体主義

もう一つ、注目されている本があります。哲学者ハンナ・アーレントの『全体主義の起原』という著作です。1951年に発表されたものですが(『1984年』とほぼ同じ時期です)、これも全体主義という体制がどのようにして成り立ったのかを考えようとしたものです。とりわけ、第三部において、独裁的権力がそのプロパガンダにおいてどのように嘘を利用するのか。大衆は、それをなぜ求め支持するのかが分析されています。

米国の複数のコラム(たとえばこちら)が参照しているのは、以下の箇所です。

このプロパガンダは、どんなにありそうもないことでも軽々しく信じてしまう聴衆、たとえ騙されたと分っても、初めからみんな嘘だと心得ていたとけろりとしている聴衆を相手として想定し、それによって異常な成功を収めたのだった。全体主義の指導者が彼らのプロパガンダの基礎とした心理学的な仮定は正しかったのである。それはこうだった──途方もないお伽噺を今日吹き込まれた連中は、明日になってそのお伽噺が出鱈目だと確信するようになったとしても、その同じ連中はシニカルにこう主張するだろう、自分たちはもともとそんな嘘は見抜いていた、これほど見事にほかの人々を手玉にとれる指導者を持つのは自分たちの誇りだと。

ハナ・アーレント全体主義の起原3』大久保和郎・大島かおり訳、みすず書房、1990年新装版、p.131。なおこの翻訳はドイツ語版にもとづいている。

コラムが反応しているポイントは、受け手側=大衆側がもっている“信じやすさ”と“冷笑主義シニシズム)”を指摘しているところなのだろうと思います。あっというまに信じてしまうことも、シニカルにやりすごしてしまうことも、どちらも全体主義指導者のプロパガンダを成功させた原因だったのだと、アーレントは分析しています。

この他、アーレントは別のところで全体主義プロパガンダが提示する虚構の物語的首尾一貫性も論じていて面白いのですが、長くなりすぎるのでこれは別の機会にします。

いま、これらの本が注目されているということは、全体主義的な専制主義体制への恐怖を、アメリカの一部の読書人たちが感じ始めているということかもしれません。

日本の場合

さて、ひるがえって日本の場合はどうでしょうか。「ポスト真実」のブログ記事でもすでに書いていることですが、共通する点は多いと私は考えています。

私たちはすでに、嘘がまかり通る社会に生きています。「オルタナティブ・ファクト」という言葉の登場を受けて、首相が消費税の増税見送りの際に発した「新しい判断」という言葉を想起した人たちは、Twitter上に複数いたようでした。

つい先日も、南スーダン国連平和維持活動(PKO)について、稲田防衛相が「事実行為としての殺傷行為はあったが、憲法9条上の問題になる言葉は使うべきではないことから、武力衝突という言葉を使っている」という、ああそれってまさにオーウェル『1984年』の「ニュースピーク」ですね?という発言をしています。

www.asahi.com


現代日本の政治用語は、婉曲語が幅を利かせる社会でもあります。兵器を「防衛装備」といい、武器輸出は「防衛装備移転」という。国民をデータ管理し利活用するための番号をマイナンバーといい、海外での武力行使を「積極的平和主義」という。オリンピックのためのテロ対策だと言いながら、包括的で永続的な共謀罪を通そうとしているのも見え透いた嘘でしょう。

付言すると、私は安倍政権を批判するためにこの記事を書いているわけではありません。日本が「ポスト真実」の時代に入っている原因の一つには、民主党政権が理想主義的に過ぎる公約を並べて(沖縄の米軍基地を「最低でも県外」に移設するとか、「埋蔵金」があるとか、高速道路を無料化するとか)、それを果たせずに瓦解し、結果として政治の派手な嘘が並び、票を投じた人々を大きく失望させた歴史が影を投げていると考えています。

そこで日本の有権者は、政治の嘘への諦念を深めてしまった。

トランプ現象やイギリスのEU離脱は、政治、メディア、知識人、官僚など既得権益層への反発が根柢にあるといわれています。日本もこの状況は同じですが、ただし現状でいえば、政治の既得権益層への反発だけが薄いという特徴があります。端的に言えば自民党への反発が強くない。なぜそうなっているかといえば、日本はすでに一度、「自民党をぶっ壊して」いるからです。そして自民党がぶっ壊れた後、民主党もぶっ壊れた。

だから、政治的にはもう日本はある意味でブレグジット(EU離脱)もトランプ現象も通過したところがある。経験していないのは、あからさまに極右であるリーダーの登場だけです(地方政治では経験済みですが)。

現在の政権は嘘を並べており、私はそれを深く危惧しますが、それがまかり通る原因の一つには、民主党がついた(結果として、というべきかもしれませんが)嘘の数々も数えるべきで、それがボディーブローのようにいま効いている気がしています。

まとめ

秘密保護法、安保法制、東京オリンピック、共謀法などなどが進行していく日本の現代政治の歩みを、日中戦争から太平洋戦争へと向かった1930年代の歩みの反復とみる見立てがあります。トランプ現象に向き合う米国にも、似たような感覚に捉えられている人々がいることが、「オルタナティブ・ファクト」という言葉をめぐる記事やコラムからうかがえます。

嘘がまかり通る世界は、言葉への感度が下がり、言葉が構築できるはずの厳格さへの信頼がゆらぐ世界です。意に沿わない情報は、「嘘だ」「デマだ」「フェイクニュースだ」と決めつける。厳格な法的議論で決着を付けるべき憲法論議が「解釈」というあやふやな理屈ですり抜けられていく。白紙の領収書に問題がない総務大臣が答弁し、「土人」は差別語ではないと閣議決定する。殺傷を伴う武力衝突も戦闘行為ではないことになる。

嘘がまかり通りつづけると、現実を支えている感覚がどんどんと失調していきます。そして待っているのは、「ガス燈」のヒロインのように、自分の正気が信じられなくなり、正しさの基準を支配者に委ねていく世界です。


なお最後につけ加えると、戦前回帰論を念頭におかずとも、日本には「オルタナティブ・ファクト」という新語は必要ないでしょう。我々には大本営発表というすばらしい歴史的な言葉があるのですから。

www.youtube.com