あいちトリエンナーレに子連れて行って思ったこと
子連れで楽しめる工作コーナー(ダミコ・ルームとかキャラバンファクトリー)があって、そこが今日のお目当てでした。無料でありました。簡単な工作を親子でできるところがあったり、ゲーム感覚で素材や色や見え方のいろいろを体験するコーナーがあったりと、面白いので、近郊の子育て中の方には、おすすめです。
時間が少し余ったので、10階の展覧会の方も見て来ました。
インスタレーションは、予備知識なしで行くと正直あまりピンとこないことが多くて、まあついでに、という程度での気持ち(すいません)で入ったのですが、今回発見したのは、子連れで現代美術観賞は、けっこう面白いかも、ということでした。
子連れで行くと、
- 「難しく考えよう」とそもそも思わない(思ってられない)
- 面白いところと、すっ飛ばすところのメリハリがすごい
- 引っかかるポイントを、子どもが作ってくれる
- 子どもに「翻訳」しようとする過程で、頭がほぐれる
- 子どもの反応を見て、見方の「解」の一つを知る
というようなメリットがあります。
たとえば、小さな飛行機があって、翼が一つ取れていた。そこまでは私も気づいたけれど、子どもは少し先に行った人形がその翼を持っていることに気づいた。おー、すげー、おもしろい、ここにストーリーが!みたいな発見とか。
裸足になって入った部屋の、真っ白な廊下で、うれしくなってくるくる回り始めた子ども。反応が身体表現ですぐに出てくる。そうそう、そういう浮遊感とか、ふわふわ感とか、くるっとまわりを見回したくなる感じとか、制作者は出したかったんだろうね、みたいな。
また、トリエンナーレはお祭りなので、ちょっと観衆の雰囲気がゆるいのもあって、子連れでもあまりピリピリしなくてすみました。ほっておくと触りそうになるので、監視はしつづけましたけれども。
上記、美術展の見方としては変則的ですし、きちんと作品に向き合えなかった展示も多いので、その点申し訳ない次第ですが、個人的には新しい発見でした。
あいちトリエンナーレは、10月23日までやっています。色んな会場があるようです。1800円のチケットで、通しで各会場1回ずつ行けるようです(無料のところもけっこうあります)。肩肘張らず、行くと面白いと思いますよ。
公式サイトは、こちらです。あいちトリエンナーレ2016
東アジアと同時代日本語文学フォーラム 名古屋大会(告知第2弾)
10月末に、「東アジアと同時代日本語文学フォーラム 名古屋大会」という国際研究集会を開催する運びとなりましたので、ご案内を申し上げます。
「東アジアと同時代日本語文学フォーラム」は日本、韓国、中国、台湾の日本研究者が各地域を毎年巡回しながら一堂に集う国際研究集会です。これまでソウル、北京、台北で開催されてきました。今年は名古屋大学と博物館明治村を会場として開催します。
各地域の大学院生たちによる発表集会「次世代フォーラム」と、シンポジウム「集団の記憶、個人の記憶」が主なプログラムです。詳細な要領、プログラムは下記およびリンク先ウェブサイトをご覧下さい。
どなたでもご参加いただけます。ぜひ、秋の名古屋大・博物館明治村へお越し下さい。(なお博物館明治村で開催される30日のプログラムについては事前申込と、明治村入村料などが必要になります)
「第4回 東アジアと同時代日本語文学フォーラム 名古屋大会」
Forum on East Asia and Contemporary Japanese-Language Literature in Nagoya名古屋大会テーマ「集団の記憶、個人の記憶」
開催日程・2016 年10 月28日(金)~30日(日)
場所・28日 名古屋大学文系総合館7Fカンファレンスホール他
29日 名古屋大学アジア法交流館ACホール
30日 博物館明治村 第四高等学校物理化学教室
公式ウェブサイト(趣旨、スケジュール、発表要旨、アクセス、申し込みなど)
http://nagoyauniversity.wixsite.com/jl-lit-nagoya
- 主催 東アジアと同時代日本語文学フォーラム
- 共催 「昭和モダンの展開/転回-1930〜40年代東アジアにおける文化翻訳のポリティクス」(JSPS科研費26370430)
- 後援 名古屋大学大学院文学研究科、名古屋大学大学院文学研究科附属「アジアの中の日本文化」研究センター、九州大学大学院地球社会統合科学府言語・メディア・コミュニケーションコース、高麗大学グローバル日本研究院日本語文学・文化研究センターおよび高麗大学BK21PLUS 中日言語文化教育・研究事業団、北京師範大学外国語学院日本語科、台湾輔仁大学外国語学部日本語文学科
- 助成 国際交流基金、東芝国際交流財団、鹿島学術振興財団、名古屋大学国際会議助成金
センター試験後継の新テストに「国語」の記述式問題を導入したときに起こる惨状
※ 最初に大事なお断りです。下記の記述は、現在公開されている情報と、中高・予備校・大学短大の試験現場についての知見を総合して、日比が予測的に書いたものです。個人の予測ですから、当然外れたり勘違いがありえます。また採点現場の事情について触れたところがありますが、いかなる大学の個別的事情も公開しているものではありません。あくまで「国語の採点」の最大公約数的実態と日比が考えるところを述べたものです。誤解なきよう、お願いいたします。
以下長文です。目次を示しておきます。結論だけ知りたい方は、Ⅲに飛んで下さい。私が本当に言いたいことは、実はⅢだけです。
Ⅰ 最初の確認
確認A 同じ「国語」でもセンターとは出題の形式が大きく違う可能性
文科省の資料を読んでいる中で、新テスト(センター試験に代わるものとして検討されている共通テストのこと)の「国語」についての「記述式問題イメージ例」を見つけました。高大接続システム改革会議「最終報告」(平成28年3月31日)の参考資料として付されていたものです。全体像はリンク先pdfの66枚目から読むことができますが、部分のみ画像で下に示します。
現在の一般的な記述式の「国語」の出題とは、かなり違っていることがわかると思います。多くの大学入試の「国語」の問題が、長文の評論などを読解した上で、その内容の正確な把握にもとづいた要約的な解答の提出を求めているのに対し、これは複数の文章や図表、グラフを読解し、それらを総合的に突き合わせ、異なった角度から見解を示すことを求めています。
これは、「国語」という教科で養成しようとしている力が、変化している(変化させようとしている)ことに由来します。上記の「たたき台」を出したのが、「高大接続システム改革会議」であることからわかるように、高校の指導内容と、大学入試の形式と、大学の入試選抜・教育・学位授与ポリシーとを、文科省は一体的に変化させようとしているのです。
確認B 国語の採点には「ゆれ」がつきもの
国語の記述式の採点は、難しいです。難しい最大の理由は、長文の解答文を評価しなければならないことに由来します。一般的な採点の方法は、おそらく次のようにされています。
(a) 部分点の積算 + (b) ミスの減点
50文字なら50文字の解答文のなかに、答えるべき要素(出題文から読み取る)が2つとか3つとかあります。まずそれが確実に含まれているかどうかが、(a)。ただし、この「含まれ方」にグラデーションが存在しえます。含んで欲しい情報量を完全に網羅している解答から、部分的に欠落している解答、まったく不足している解答まであります。
そして解答文は、ミスを含みます。テンパった受験生が時間に間に合わせようと必死で書く解答です。誤字脱字。テニヲハの間違い。文章のよじれ。文字数不足。などなどなど、出てしまって当然でしょう。これを加味するのが、(b)。
要するに、国語の記述式の採点は、文字数が多くなればなるほど、判断するチェックポイントがどんどん増えていきます。そしてチェックポイントのそれぞれに判断の「幅」が存在しえます。その「幅」の判断が人によって分かれ、その判断の異なりが積み上がると、最終的な得点に差が出てきます。
実際の採点現場では、この「ゆれ」や「幅」をできるだけなくす工夫をしているはずです。詳細な採点基準を設けたり、採点者ごとの採点範囲を工夫したり、などです。各校の中で出題・採点をするので、それができます。
後述しますが、センター後継の新テストでは、共通の問題に対し、それぞれの大学が個別に採点を行う可能性が出て来ました。さて、何が起こるか。
確認C 入試日程の大枠は現在と大きく変わらない
国立大学協会が、入試日程について検討をしています。「大学入学希望者学力評価テストの実施時期等に関する論点整理~とくに国語系記述式試験の取扱いについて~」(平成28年8月19日)という文書です。
これによれば、現在の1月中旬のセンター試験日程より前倒しする案は、高校現場の日程から難しい。後ろ倒しは検討していませんが、つまりそれはありえないので検討もしていないということでしょう。そうすると時期はおそらく現行通りです。
下図は、野田塾が作成した「平成28年度 国公立・私立・短期大学入試日程」です。
国大協の日程検討は、当たり前ですが国立大の都合しか考えていません。私立大学・短期大学の入試日程は、現在上図のとおり。センターの追試験直後から、入試が始まっていることがわかります。採点、いったいどうなってしまうのでしょう。
Ⅱ 「記述式」導入でどうなる?
1)大学の採点担当者は寝られるのか
一番にこれを持ってきておきます(笑) 入試日程を上で確認しましたが、もっとも厳しいのは、新テストを利用する、入試日程が早く(二月上旬など)、規模も大きい私立大学です。一月下旬には大学に解答用紙が届けられるでしょうが、いったいいつ採点しろというのでしょう。
一月末~二月第一週は、多くの大学で試験期間や補講期間です。それが終わるとすぐ、私立大は入試です。平行して卒業論文や修士論文の審査も行われます。
国公立大学も少し時期はズレますが、おおむね同じです。私立大学は入試日程を勘案して後期の授業終了日を早めに設定しているところが多いと思いますが、国公立はその分二月に授業や試験期間が食い込むことも多いです。大学院の入試も、二月の中旬にあるところが多いようです。
何度でも書きますが、いったい、いつ、誰が、新テストの採点をするというのでしょうか。
2)一人の解答を、複数の大学が採点する愚
国大協が出した文書では、各大学が出願後に採点するという案も出ています。(念のため言っておきますが、国大協の文書はまだ「論点整理」の段階であって、走る方向を定めた文書ではありません。朝日新聞(記述式、大学が採点へ センター後継新テスト 国語で検討:朝日新聞デジタル)や、読売新聞(大学入試改革 受験生のためになる1月実施 : 社説 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE))の報道は、その点で先走りすぎています。)
大学入試は併願できますから、一人の受験生の新テストの解答用紙が、コピーされて複数の大学に行く可能性があります。
一人の受験生の同一の解答を、複数の大学が採点する──なんという労力の無駄でしょう。しかも、確認Bで述べたように、複数の採点担当者が連絡を取らないまま採点すれば、必ず「ゆれ」「幅」が生まれます。一人の受験生の「国語」の点数が、複数生まれる可能性があります。
大学は必ず、「採点の根拠の説明」を求められるでしょう。もしかしたら、採点方針の公開を求められるかもしれません。問題作成者は、大学入試センター(の後継組織)です。大学側は受動的にその問題を解くことになります。もしも各大学が採点基準を公開した場合、断言してもいいですが、絶対に各大学間でブレます。
大学入試センターもそれは見越しているでしょう。で、どうなるでしょうか。「ゆれ」を出さないための、ものすごく分厚い採点マニュアルが届き、採点者たちを押しつぶす、という未来が見える気がします。
3)受験生の力は結局うまく測れない
私は「たたき台」を見てその方向性にびっくりしましたが、ざっと読んで実は少し安心しました。あまり難しくない、と私は思いました。これなら、そんなに解答もぶれないかもしれない、と。
その次に疑問が頭をもたげました。これで本当に受験生の力が測れるのだろうか、と。
ねらいはわかります。複数の情報源を突き合わせ、多様な見方の可能性を吟味し、自から主体的に答えを出す力を測る。すばらしい。それは本当に必要な能力です。
しかし、この程度の難易度(文字数、穴埋め形式)だと、実はあまり主体的な思考力は必要とされない。たぶん、すぐにテクニカルな=受験対応的な答えの導き方が受験現場に行き渡ります。上記の「たたき台」の例でいうなら、Aさん、Bさん、Cさん、Dさんの立場をすべて自分で書け、ぐらいじゃないと本当のその人の力は見えてこないように思います。「Aさん、Bさん、Cさん・・・・Xさんの存在を発見する」という能力こそが、真に重要な力だからです。
では、そうした骨のある問題が出せるでしょうか。おそらく難しいでしょう。新テストは、センター試験と同様に、幅広い学力の受験生が受験します。
採点側の問題もあります。がっつり文字数を取って主体的な答案を書かせた場合、採点にも膨大な時間がかかります。しかも、主体的な答案は、それが主体的であるほど、独自な見解・独自な形態を含むでしょう。一人の採点者が、その採点する答案群の内部において、採点のランク付けを行うことは可能です。しかし、それを採点者間で基準の統一を図るのは、困難です。主体的な答案には、採点者も主体的に向き合うしかないからです。
とすると自然、設問は穏当で「ぬるい」ものになる。共通テストの限界です。狙った学力は、本当に測れるのか。
なお、国大協は「設問の中に構造化された能力評価の観点を踏まえつつ、各大学(学部)はアドミッション・ポリシーに基づき独自の 採点基準を採用することができ、各大学(学部)の主体性が発揮できる」と述べていますが、寝言です。
たとえば、東京大学の現在のアドミッション・ポリシーはこちら。
東京大学アドミッション・ポリシー | 東京大学
抽象的です。当たり前です。具体的にしたら、受験生をそれだけあらかじめ絞ることになります。アドミッション・ポリシーは、理念です。理念を、ある教科の具体的な設問の採点基準に落としこむことなど、できるわけがありません。しかも作問者は大学入試センターなのです。
4)コンピュータ利用がキナ臭い
前掲の高大接続システム改革会議「最終報告」(平成28年3月31日)を読むと、新テストがこの先いくつかの場面においてコンピュータの利用を想定していることがうかがえます。このへんです↓。
大局的に見た場合、受験の姿は今後そのように変わっていくでしょう。しかし、この試行期には、かなりのドタバタが起こります。
私は情報技術のことは詳しくありませんが、受験の世界で情報技術に何が求められるのかについてはある程度予見することができます。センター「英語」のリスニングの前例があるからです。
リスニングのICプレイヤーの故障率について考えた記事を見つけました。
www.02320.net
故障率は、2006年当初で0.083%でしたが、2016年には0.008%にまで下がっています。2016年の場合53万人超が受けて、不具合数は43個です。
この驚異の低故障率でも、不具合が出れば絶対に新聞に載ります。どんなけ厳しいんだと思いますが、この国で、受験生の人生がかかっているセンター試験に要求されるレベルとは、0.00x%の世界です。
受験生の手書き答案に対するOCR認識が、このパーセンテージの誤差レベルまでたどり着けるのは、何年後か。
受験生の答案をタイプ別に「クラスタリング」するという技術が、このレベルの精確性まで到達するのは何年後か。
私にはそれが何年後に実現するかわかりません。意外に早いのかもしれません。しかし、コンピュータによる採点が「けっこう信用できる」レベルに到達するまで、その尻ぬぐいが回ってくるのは現場の「人間」です。
しかし、上図「記述式採点の効率化」のCBTのように、いまに本当に「受験生が直接入力によりテキスト化」とかやるようになるんでしょうか。あのシンプルなICプレイヤーでさえこの騒動なのに、パソコンを使うとか、・・・・悪寒しかしません。
5)新テストは2日間で終わらないかもしれない
現在センターの「国語」は「評論+小説+古文+漢文」で問題が構成されていますが、上記の記述問題の「たたき台」を見ると、もしかしたら問題構成自体が変わるのかもしれません。たとえば、「評論+小説+古文+漢文」+「記述」のように。
となると、解答時間は現行の80分では足りそうにありません。もしかしたら、現在の「リスニング」のように、別立ての時間が取られたりするかもしれません。将来的に「国語」だけでなく「数学」やその他の科目へと記述式問題が広がっていった場合、試験は2日間で収まらない可能性が出て来ます。
もしも収めるならば、現在の問題構成も、かなり比率が変わってくる可能性がありそうです。
さて、いい加減長くなりましのたで、まとめに入ります。まとめはシンプルです。
Ⅲ まとめ
以上要約すると、次になります。
いいかげん、研究者に研究させろよ!(怒)
中国調査出張から戻りました
帰国しました。写真は、哈爾浜(ハルビン)に向かう途中、早朝の長春駅です。
書きたいことは山のようにあるのですが、とりあえずメモ的に。
1.図書館
行く前からわかっていたことだが、中国東北部のめぼしい公立・大学図書館の旧満洲国関連資料は全面封鎖状態。目録を見るあたりで限界。これは日本人でも中国在住の中国人研究者でも同じ。「窓口のコネ」次第で多少の融通は利くかもしれないのだが、それもわずかな範囲だろう。
2.満洲か、中国東北部か
にもかかわらず、行く価値はある。現状では、旧満洲国・関東州関係の調査をするのには、日本が一番資料が揃う。だが、その位置・その資料に充足すると、「満洲」の問題を、「中国東北部」という角度から見られなくなる。
3.中国人の「朋友」関係って・・・
中国人の朋友関係は、いったいどうなっているんだろう。。。 私は今回色んな人にほんとにお世話になったのだが、その中の何人かは、日比の友人・知人の、「(一回しか会ったことがない)先輩」とか「友達の友達」だった。そういう人たちが、半日とか一日車を出してくれ、ぐるぐる回るのに付き合ってくれ、下手するとご飯をおごってくれる。
私の外国の知人が名古屋を回るときに、私の友達の友達が、車を出すことは、まずありえない(頼まない)。一回しか会ったことがない大学の先輩に案内を頼むことも、まずありえない。
中国語の「朋友」の意味は、日本語の「友達」よりも広い、と留学生から聞いたことがある。それは単に「範囲が広い」ということではなく、もしかして、そもそも友だち付き合いとか、人にものを頼める範囲の感覚というのが、根柢から違うのかもしれない。
こういう頼み頼まれの、貸借関係はそしてどうなっているのか。。 どうやって恩義の借りを返すのか。それもそも貸し借りではないのか。私は膨大に受けた恩義の「借り」をどうやって返せばいいのか。。。
なお、上記の「中国人」は、「中国東北部の人々」かもしれません。あるいは「さらにその一部」の人かもしれません。乞うご教示。
4.日本人の建物への態度
今回、はじめて長春(旧新京)、哈爾浜、瀋陽(旧奉天)、大連に行ったが、予想以上に建物が残っており、現役で生きていた。台湾の都市(台北や台南)がそうした街だということは見て知っていたが、量的には中国東北部の方が各都市それぞれにおいて台北や台南より多く、かつ台湾のそれらがけっこう観光財化している(博物館とか展示施設とかカフェとか)のに対し、もっと普通に現役の建物として活躍していた。
中国東北部の建築や建物を見て回りながら思ったのは、こうした戦前の建物を、もっとも徹底的に壊したのは、韓国ではなく(これまでそう思っていた)、日本の都市じゃないかということだった。つまり「植民地建築」の話をするときに、日本国内の建物の扱いを棚上げにして語るのはおかしかろうということである。いまさら、思い至った不明を恥じる。
なお、旅順は町並みがすっかり変わっていて、短時間の滞在だったこともあり、うまく古い地図と照合できなかった(旧駅を挟んで司令部や博物館側ではなく、日本人商店街側の話)。
5.つづき
「日本人が作った建物は丈夫ですよ。だからずっと使える」という風にいう方もいた。大規模な公的建築において、ある部分において事実だろう。
「発展のためにはしかたないですよ」、旅順の町並みがすっかり変わり、旧日本人町が消えているという話をする中で、こうも言う人がいた。これもまた、当然だ。旅順に今生きる人たちには、今の生活がある。かつて押しかけてきた日本人の町など、それがじゃまならばぶっ壊して当然である。